イラスト/富永商太

江戸時代

地獄の大減封を食らった米沢藩 2代目・定勝から8代目・重定までのザ・過酷

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正保二年(1645年)9月10日は、米沢藩二代目藩主・上杉定勝が亡くなった日です。

上杉景勝の息子であり、同家が120万石から30万石へ大幅に減封された後、真っ先に対応しなければならなかった人であります。

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関ヶ原の戦いを経て、過酷な収入源を強いられた上杉家は、その後、いかにして立ち直ったのか?立ち直らなかったのか?

その苦労を見て参りましょう。

 

後の上杉鷹山も参考にした改革手腕

そもそも定勝は、生まれた直後から割とハードモードな人生でした。

母・四辻氏が出産から半年もせずに亡くなったため、父の腹心である直江兼続夫妻に育てられています。
この時代のことですから、四辻氏が生きていたとしても同じだったかもしれませんが。

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立場上・仕事上、父親にはろくに会えないのが当たり前の武家で、更には母親にも会えない、既にこの世の人ではない……というのは心細い幼少期だったでしょう。

幸い、父の上杉景勝が亡くなって家督を継いだとき、定勝は19歳になっていました。
若いとはいえ幼いというほどでもなく、家老の補佐次第できちんと当主をやっていけるくらいの年齢です。

定勝は若さと体力とやる気で、関が原の戦い以降は傾く一方の財政を何とかするため、藩政に取り組んでいきました。

具体的には、領内の総検地と質素倹約・文武忠孝を奨励。
これは後に、あの上杉鷹山も参考にしたといわれています。

また、キリシタンの取締を強化し、処刑も積極的に行って幕府への忠誠心を示しました。

定勝の時代は武断政治=「落ち度のある外様大名は即座に改易」だったので、そのくらいしないといつクビになるかわからなかったから、というのも大きかったでしょうね。

そんな感じで、江戸時代ののっけから前途多難な上杉家。
定勝の息子である三代から、鷹山の義父である八代藩主まで、マトメてみたいと思います。

 

上杉定勝/wikipediaより引用

 

三代目 上杉綱勝つなかつ

定勝の死により、6歳で急遽家督を継ぎました。
しかも10歳のときに幕府から江戸城の石垣普請(工事)を命じられ、さらに米沢藩の財政悪化が進みます。

藩主になったのも若かった、というか幼かったのですが、世継ぎのないまま25歳で急死してしまったことで、米沢藩は上から下まで全く嬉しくないハラハラ・ドキドキを味わうことになります。

幸い綱勝は結婚はしており、舅がときの将軍・家綱の叔父である保科正之だったため、家老たちが掛け合って、綱勝の甥である綱憲を末期養子にしました。

末期養子とは、大名が危篤もしくはそれに近い状態になってから、跡継ぎを用意するために迎える養子のことです。
「今際の際にギリギリで跡継ぎを決める」といったほうがわかりやすいでしょうか。

江戸時代の初期は「世継ぎを決めることもできない大名なんて無能だから、家を残す価値ナシ」と考えられていたため、末期養子は基本的に認められていませんでした。

しかし、時代が下って、ある程度改易や領地の整理が進むと「取り潰しすぎると次の藩主とか当主決めるのメンドクセ」という考え方が強まり、末期養子が頻繁に認められるようになったのです。

そもそも「戦のない時代に、武士が跡継ぎを残さずバタバタ死ぬ」というのも違和感のある話で、おそらくは生活習慣の変化が大きな影響を与えたと思われます。

戦国時代に近い世代は健啖(大食い)かつ運動量も多い=身体が頑健な武士が多く、これが江戸時代になって武士が貴族や政治家に近づくに従い、運動不足などが目立つようになりました。

つまり不健康になったわけです。
江戸時代の後期には、太っていたわけでもないのに馬に乗れない大名も珍しくなかったといいますし。将軍家も同じですが。

また、江戸時代は飢饉や災害が多かったため、ちゃんと食べていても現代の栄養学や医学の基準では栄養失調に近い人が多かったのかもしれません。

となると子供もできにくくなり、出生率が個々の体質に大きく依存するようになり……という悪循環が生まれるのも無理のないことです。

さて、話を上杉家に戻しましょう。

 

四代目 上杉綱憲つなのり

上記の通り、綱憲は綱勝の子供ではありません。

綱勝の妹が吉良義央(忠臣蔵のやられ役)に嫁いで産んだ息子です。
カーチャンの実家を継いだことになるわけですね。

そういう立場だからなのか。
綱憲は早めに結婚したり、次男を吉良家の養子に入れたり、後継者を意識したと思われる動きをたびたびしています。

他にも上杉謙信や上杉景勝の御年譜(公式記録)の編纂などを手掛け、文治政治と信賞必罰を進めました。

しかしその一方で奢侈(しゃし)に傾き、結局、財政改善には至っていません。

まだ末期養子の例が少なかったこともあり、「跡継ぎを決めてなかったとか武家として恥ずかしいよね^^」(超訳)という理由で30万石から15万石に減らされてしまったので、急に改善できるはずもありませんでした。

また、吉良家との結びつきが強くなったことで、同家に対してお金を使うことが多くなったから、というのも理由の一つです。

父が殺された件については、幕府の命令もあり関与していません。
意外にも思えますが、「幕府の命令>>>>>(越えられない壁)>>>>>実家への義理」ということですね。

世間からは「浪士たちは主君の仇を取って立派なのに、父親を殺されて黙ってる上杉の殿様は腑抜け」「謙信も景勝も草葉の陰で泣いてるぞ」といった感じのことを言われたそうです。
そりゃ、庶民は何とでも言えますものね。

 

五代目 上杉吉憲よしのり

米沢藩では珍しく、父の生前に家督を継いでいます。
そのとき19歳だったのですが、継いで早々江戸城の半蔵門及び清水門の普請を命じられ、財政悪化が加速しました。

また、35歳のときに弟・勝周(かつちか)に1万石を分与し「米沢新田藩」として独立させています。

上杉吉憲/wikipediaより引用

なぜこのタイミングで分知する必要があるのか?

謎です。
勝周の系統は養子を含め、その後の米沢藩を支える一柱となりましたので、結果オーライということで。

次の六代から八代の三人は全員吉憲の息子たち、しかも同母兄弟でした。

兄弟で藩主継承が行われたということは、それだけ若いうちに亡くなった人が多いということで、その……うん……。

 

六代目 上杉宗憲むねのり

父・吉憲の急死により、8歳で家督相続というまたしてもハードモードな人でした。

叔父・勝周が後見して何とかなったと思いきや、宗憲が19歳のときにやっぱり江戸城の普請を命じられたせいで窮乏が加速。
しかもその翌年に若くして急死しています。

死因はストレスか過労死なんじゃ……。

 

七代目 上杉宗房むねふさ

宗憲の弟で、末期養子になり跡を継ぎました。

上杉宗房/wikipediaより引用

年貢の延納許可や藩士の給料借り上げなどを行いましたが、効果はあまり出ませんでした。

兄と同じく、息子に恵まれないまま、28歳という若さで亡くなっています。

 

八代目 上杉重定

宗憲・宗房の同母弟で、鷹山の義父(正室の父)です。

この頃になると、さすがの上杉家でも家臣の質が悪くなってきており、財政再建どころではありませんでした。
家臣同士の殺害事件まで起きています。

また、重定自身も政治への意欲は低く、財政再建の足を引っ張ってしまっていました。

しかし、鷹山が財政改善のために改革案を家中へ発表した際、家臣から侮られたときは「養子とはいえ、ワシの息子に無礼を申すか」とかばってくれています。

重定は娘の幸姫が、今でいう知的障害を持っていたことを知らなかったのですが、鷹山がそれに不平も言わず、正室扱いしてくれたことを感謝していたのでしょう。

だからこそ、鷹山も重定が趣味に金を使って家臣から「大殿様の金遣いはどうかと」と言われたとき「あれは義父上の生きがいだから」とかばったのだと思われます。

兄たちの数倍長生きしたのも、趣味に打ち込めたからなのかもしれません。
重定は鷹山と一緒に学者の講義を受けたりもしているので、なぜ財政再建だけ協力してやらなかったのかがよくわかりませんが……。

上杉重定/wikipediaより引用

改めて見てみると、本当に上杉家はハードモードですね。

鷹山以降のことはまた別の機会にまとめたいと思いますが、よく家が存続できたものです。
その辺が軍神の加護なんでしょうか。なるほどわからん。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
上杉定勝/wikipedia

 



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