大黒屋光太夫(左)と磯吉/wikipediaより引用

江戸時代

大黒屋光太夫が『未知(ロシア)との遭遇』でエカチェリーナとも謁見

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人生いつ何が起きるかわかりません。

ちょっとした行き違いで何もかもダメになってしまうこともあれば、偶然出会った人や物と一生関わることもありますよね。
本日は江戸時代のそんな「未知との遭遇」のお話です。

寛政五年(1793年)9月18日、ロシア帝国に漂着していた大黒屋光太夫が、帰国の後、将軍・徳川家斉に謁見した日です。

彼は伊勢(現・三重県)出身の輸送船・船長だったのですが、この数奇な出来事によって歴史に名を残しました。

江戸へ向かう途中、駿河沖あたりで暴風に遭い、流れ流れてアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したというのですが……ナンボなんでも流れた距離がダイナミック!

グーグルマップで距離計測ができなかったのですが、目分量で軽く2000km超で、「事実は小説より奇なり」を地でいっています。

途中で陸地とか見えなかったんでしょうか……というより、よく生きてここまで辿りつけましたよね。

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漂着から数年後 小舟を作って帰国しようとしたが……

細かい話は置いておくとして、大黒屋光太夫が何とかしてたどり着いた先は全くの異国です。
当然ながら、途方に暮れたことでしょう。

しかし、アムチトカ島の先住民や、狩りに来ていたロシア人と仲良くなり、さらにはロシア語を覚えたことで、光太夫たちは帰国の糸口をつかみます。

この辺のコミュ力、ぱねぇっすね。
人間追い込まれると、馬鹿力を発揮するということでしょうか。

光太夫は、四年ほどそのまま暮らし、漂着から数年後、その辺の材料を使って小船を作り、何とか帰ろうと船出します。

ところがどっこい。北の海は「やらせませんよ!」とばかりに帰国を阻みます。
そして、途中で知り合ったロシア人も加わり、いつしか光太夫たちが主導して陸地を目指すという、何ともしまらない感じになりました。

「だめだこいつら、早くなんとかしないと」と思ったんですかね。
災害時の日本人は強いといわれますが、漂着もそのうちに含まれるんでしょうか。

 

ときのロシア皇帝・エカチェリーナ2世にも謁見!

次の船出は何とか成功し、オホーツクからは陸路で西へ向かったようです。
ロシアの領土ほぼ横断とか人間のやることじゃない(褒め言葉)。

そして光太夫一行は、途中のイルクーツクという町で、またしてもロシア人の協力者に恵まれました。

キリル・ラクスマンという博物学者です。

キリルは常日頃から日本に興味を抱いていたそうで、降って湧いた日本人のために骨を折ってくれました。

彼は元々、ときのロシア皇帝・エカチェリーナ2世やお偉いさんとも会ったことがあるくらいの学者さんだったので、光太夫らも大喜び。
さっそく連れ立って首都・サンクトペテルブルクに向かいます。

エカチェリーナ宮殿/photo by Stan Shebs wikipediaより引用

そしてキリルのおかげで無事あのスゴイ女帝にも謁見が叶い、しばらく時間はかかったものの、光太夫たちの帰国は許されます。

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再び彼らが日本の地を踏んだのは、寛政四年(1792年)のことでした。
降り立ったのが根室港だったので、松前藩経由で幕府に報告をしています。

そして寛政五年(1793年)のこの日9月18日に将軍家斉に謁見、ロシアから持ち帰った諸々を献上したというわけです。

大黒屋光太夫が描いたという日本地図/wikipediaより引用

光太夫が持ち帰ったものの中には、ロシアから日本へ通商を求める手紙も含まれていました。

ときの老中・松平定信はこれを好機と捉えたか。
光太夫をツテにしてロシアとの交渉を考えていたようです。実現する前に失脚してしまいましたが。

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ただ、ロシア側からの使者だったキリルの息子アダム・ラクスマンも、帰国&エカチェリーナ2世の死後失脚しているので、どっちにしろ頓挫していたかもしれませんね。

 

体験記を桂川甫周が『北槎聞略』にまとめ、幕府へ

その後、光太夫は江戸の小石川薬草園に屋敷を与えられ、蘭学者と交流しながら西洋の学問を広めるために協力します。

漂着の経緯とロシア人・ロシア帝国については、桂川甫周かつらがわほしゅうという学者が光太夫らにインタビュー。
北槎聞略ほくさぶんりゃく』にまとめて幕府へ献上しています。

『北槎聞略』表紙/国立国会図書館蔵

当時のロシアについての風俗や社会制度、言語などが驚くほど詳細に掲載、貴重な史料となりました。

漂着後のガッツといい、光太夫やその他の船員スペック高すぎやしませんか。

もちろんソースが記憶なので間違いもあるのですが、相違点については巻頭で「外国のことだから、彼らが全てを理解したとは限らない。でも正誤の判定は私には出来ないから、後世の人に任せる」(意訳)と書いてあります。用意がいいですね。

この本は昭和十八年に刊行された版を近代デジタルライブラリーで読むことが出来るので、旧字体や旧仮名遣いでもイケる方は読んでみるのも一興かと。

218ページあるので、画面上で全部読むのはなかなか根性が要りますが、物語や論文ではなく箇条書きに近いので、比較的読みやすいと思います。

例えば「虫」のページには、簡潔な説明の後「寒いので虫の数は非常に少ない」と簡単に済ませてある一方、「魚」のページでは種類や大きさ、調理法まで書いてあります。
「草」や「獣」も似たような感じです。

日本人の興味がどんなものに向くかということがよくわかりますね。知ってた。

これまた余談ですが、最初のほうに「わかりやすくするためにあえて俗っぽい言葉で書いたよ」(意訳)とか「でも嘘は書いてないよ」(意訳)と書いてあります。

よくそのまま幕府に出したものですね。
そのくらいはおkなことになってたんでしょうか。江戸幕府って意外と心が広いなぁ。

現代の公文書をこんなフランクな口調で書こうものなら、次の日には全世界にネットで公開されて大後悔時代になることでしょう。世知辛い世の中になったものです。

 

実家では既に供養が済み、碑まで立てられていた!?

光太夫は幕府の許可を得て故郷・伊勢へも一度帰っていますが、基本的には江戸で穏やかに暮らしました。

「光太夫は幕府に軟禁されていた」とする小説があるので、そちらのイメージが強いかもしれません。
しかし実際には、多くの学者や知識人たちとの交流もあり、かなり自由な暮らしだったとか。

そりゃ、今でいえば「隣の銀河に偶然行っちまったけど帰ってきたぜ」みたいな扱いだったでしょうから、学者さんたちがこぞって訪れるのも無理もないですよね。

ちなみに、帰国まであんまりにも時間がかかったため、光太夫の実家のほうでは「アイツはもう帰ってこないに違いない……」と思い込み、供養のための碑を作ってしまったそうです。

もしかして上記の伊勢帰国は、これを撤回させるかただ見るためだったのかもしれませんね。
その辺の真偽はわかりませんけども、碑はきっちり残っているそうなので、光太夫もあまり細かいことは気にしない人だったようです。

人生、テキトーなほうがうまく行くこともあるんでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
大黒屋光太夫/wikipedia

 



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