水戸光圀/Wikipediaより引用

江戸時代

水戸光圀が『大日本史』を献上! 不正の摘発より濃ゆい黄門様の偉業!

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江戸時代の時代劇と言えば水戸黄門。

ご存知徳川光圀の旅を描いたもので、ドラマでは悪人退治しか取り上げられませんが、実は日本で初めてラーメンや餃子を食べたり、生類哀れみの令を無視して肉を食いまくったり、なかなか剛毅なお方です。

当時の上流階級らしく文化的な事業にも取り組んでいました。

水戸藩が光圀の代から編纂していた『大日本史』のうち240巻を幕府に献上したのが享保五年(1720年)10月29日のこと。

全397巻が最終的に完成したのは明治三十九年(1906年)ですから、途中報告というところでしょう。

 

若い頃は成敗されそうだった厨ニが18歳で開眼すると

若い頃はむしろドラマで成敗される側に近かった光圀。
18歳のとき、中国の伯夷(はくい)という儒教の聖人の伝記を読んで感銘を受けます。

どんな話だったのか。
簡潔に説明しますと……。

ときは4000年ほど前。
中国は殷(商)王朝の時代でした。

あまりにも殷の王様が横暴なので、元配下だった周という国の王様が
「あんなヤツもう王様でもなんでもねえ!ブッkrしに行くぞ!」
と兵を挙げます。

その途中で伯夷とその兄弟・叔斉(しゅくせい)が
「どんなにバカ殿でも、主君を討つなんてとんでもない! アナタ第一喪中じゃないですか! お父さんが悲しみますよ!」と反対したのですが、聞き入れられません。

そこで二人とも逆ギレし、
「周のメシなんて食いたくない!」
と餓死の道を選んだ――。

という、後世からからすると、なんだかよくわからないエピソードなのです。
周に対する嫌がらせだったんでしょうか。

何はともあれ、光圀はこの話を読んで行いを改め、「歴史は大事なんだ!」と思い直したと言います。

とりあえず深くツッコまないことにしておきましょう。
この後もツッコミどころあり杉……。

 

歴史にショック!藩主就任前から編纂を始める

よほどのカルチャーショックだったのか。
光圀は父・徳川頼房から藩主の座を受け継ぐ前に歴史書の編纂を始めてしまいます。

このとき明暦三年(1657年)。
江戸三大火事の一つ【明暦の大火】で、水戸の江戸藩邸も全焼しまった状態でのことでした。

幸い、もう一つ、駒込にあった屋敷がいくらか残っていたので、そこで仮住まいをしながらの開始です。

火事の後でバタバタしてる中、特に危急でもない書物の編纂始めちゃうっていうのは……あれ、KY治って……。
一応の理由としては
「親交のあった学者・林羅山が、自宅も書物も焼けてしまったショックで急死してしまったから」
と言われてますが、藩主の息子というか次期藩主としてこのタイミングはどうなのよ?

そして、江戸がそんな状態では簡単に進められるはずもなく、本腰を入れたのは藩主になってからのことでした。

再建の成った藩邸の中に編纂部署を移し、『彰考館しょうこうかん』と名付けられます。
後々ここに所蔵されていた本が、現在水戸市にある【彰考館徳川博物館】へ移されたので、その大元ともいえますね。

 

漫遊なんてしている暇なし!

少しずつ人数を増やしながら、光圀は大日本史を作り上げていきます。

しかし、それまでの歴史の中で散逸・消失してしまった史料も多かったため、順風満帆とはいかなかったようです。
特に南北朝時代については新しく書き起こさなくてはならないことも多く、一度編纂しなおしたとか。

それでも光圀は隠居した後も編纂を続けました。

既に70歳近くなっており、死期を悟った光圀は存命中に全てを完成させることは無理と判断したのか、本紀(歴代の天皇について書かれた巻)と列伝(皇族と臣下についての巻)だけでも完成させるよう命じます。

その甲斐あって、元禄十三年(1701年)に光圀が亡くなるまでには大日本史の根本に当たる部分はできていました。

光圀死後はお抱え学者などによって編纂が続けられますが、次第に水戸藩の財政を圧迫することにもなります。
そのためか、中心人物がなくなる度に頓挫……もとい、中断してもいます。

だから最終的な完成が明治時代になってしまったんですね。
とはいえ、途中までできた分だけでもたびたび刊行していたようで、水戸藩はもちろん幕末の思想・ひいては討幕運動に大きく影響を与えていくことになります。

 

国粋主義な歴史書が漢文で書かれている

さて、その大日本史ですが……実は漢文で書かれています。

日本の歴史を書くのなら、現代のような書き下し文とはいかなくても、当時一般的だった候文(そうろうぶん・末尾に丁寧に書いていることを現す「候」をつける文体)で書いたほうが目的に適っている気がするのですが……。

形式を真似るだけじゃダメだったんですかね。

中国人向けに書くならまだしも、国内で読ませるためのもので外国語(に近い文)で書いちゃったら、ある程度の教養がある人しか読めません。
もちろん水戸徳川家の人や武士階級の人は読めたでしょうけど、他の人が読めるように、とまでは考えなかったんでしょうか。

光圀としては、歴史を明らかにし広く知らしめるより、水戸藩の教科書にするという目的が大きかったのかもしれません。

「武家に生まれたけどイマドキ戦なんてできないし、だったら歴史書作って名前残したいぜ!」なんてことも言っていたようですし。

知れば知るほどツッコミどころの増えるお方。
それが光圀公ともいえそうです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
常磐神社/公式サイト
水戸光圀/wikipedia

 



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