徳川家康像(駿府城本丸跡)photoby戦国未来

江戸時代

武家諸法度とは? 初代家康から15代慶喜まで引き継がれた江戸時代の武家法

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江戸時代は最初から最後(幕末)まで、やたらと新しい言葉が出てきます。

ゆえに一度出現した単語は、その時期だけに特有のものだと見られがちですが、実際には江戸時代を通してず~っと存在していたものも珍しくありません。。

代表が、今回お話しする【武家諸法度】が代表でしょう。

一言でいえば大名を統制するための法律。

江戸期を通じて何度も変更され、幕府の屋台骨ともいえる存在でした。

 

御成敗式目→建武式目からの~!

中身としてはその名の通り、武士の規範を示した法律です。

室町幕府が作った「建武式目」や、各地の分国法など。
これまで用いられてきた武家の法律を元に作られました。

御成敗式目からの進化を考えると、感慨深いものがありますね。ここまででだいたい400年くらいかかっています。
早いか遅いかは……日本の政治形態が割と特殊なので、判断が難しいところです。

まずは鎌倉時代からの「武家法」をマトメておきましょう。

◆鎌倉時代 御成敗式目

室町時代 建武式目

◆戦国時代 各地の分国法

◆江戸時代 武家諸法度

だいたいこんな感じ。
武家諸法度は基本的に、将軍の代替わりごとに改正され、発布し直されました。

現代で言えば、総理大臣の所信表明みたいなものと思えばいいかもしれません。就任直後に出されているわけではないのですが、立ち位置としてはそんな感じです。

 

大坂の陣で一息ついたから?

初めて制定したのはもちろん初代将軍・徳川家康です。
といっても、このころ既に将軍職は引いていました。

元和元年(1615年)。
大坂夏の陣の直後から武家諸法度の作成を始めたといわれています。

そして同年7月、伏見城に諸大名を集め、二代将軍・徳川秀忠の前で僧侶の以心崇伝に朗読させました。
草案の時点から崇伝は関わっていたので、その流れで朗読も任されたと思われます。

内容としては、文武奨励から始まって

・品行方正を心がけること
・反逆者や殺人者は追放するべきこと
・他国出身者を召し抱えてはならない
・居城修理をするときは事前に申し出ること
・近隣の藩が不審な動きをしているときは、直ちに幕府へ報告すること
・勝手に婚姻をしてはならない
・日頃の生活は倹約するべき
参勤交代とそれに伴う衣服などの規制

といったもので、おおむね武家の習慣や和漢の古典から採られていました。

中には豊臣秀吉時代の掟も取り入れられたりして、大名の感情や習慣化していた事柄を意識した面も見られます。
家康はこれらを全国の大名に守らせることによって、国内の統一を図ったというわけです。

家康の死去からしばらく経った寛永六年(1629年)には、秀忠による改正が行われていますが、中身はほとんど変更されていません。

 

日本全土で遵守すべき

大きく変わったのは寛永十二年(1635年)に三代将軍・徳川家光が出したものです。
参勤交代を明文化したことでも有名ですね。

他には、

・城郭の新築禁止
・城郭の修理届け出を義務付けた
・地方で反乱の兆しがみられたときは、勝手に出兵せず、幕府の指示を待つべきこと
・私的な結集と私闘は禁止
・道路交通をきちんと整備し、便を図ること
・私的な関所設置はご法度
・五百石以上を積めるような大船の建造は禁止

などが書かれています。

他に衣服や乗輿の規定など、事細かに取り決められ、そして最後に、
「大名は全員、江戸と同じ法律を国元でも適用し、日本全土で遵守すべき」(意訳)
と添えられています。

現代だったら『当たり前じゃね?』と思うこの文言。

なぜ、わざわざ記されたのか?
と申しますのも、戦国時代までは【幕府の法律<各地方の前例や習慣】という風に、中央の法整備が軽視されがちだったからです。

それを家光は、
「これからは日本国内、どこであっても同じ法律を適用するからそのつもりでな!」
と示したわけです。

徳川家光/Wikipediaより引用

 

綱吉、全面改訂するってよ

四代・徳川家綱の時代にも寛文三年(1663年)、以下のような変更がありました。

条文をよりシンプルにし、

・武家と公家との婚姻は幕府に許可を得ること
・大船建造禁令に荷船は別
・キリシタン取り締まりの徹底
・不孝者は処罰すべきこと

などが追加されました。

後世の区分では、家綱の代から【文治政治】になったとされているので、世の中の変化も影響していることがうかがえますね。

次に大きく変化を加えたのは、五代・徳川綱吉です。
本人の儒学奨励方針もあってか。綱吉は武家諸法度にも大きくメスを入れています。

なんと、天和三年(1683年)、ほぼすべての条項が改訂されたのです。

綱吉の将軍就任が延宝八年(1680年)ですから、わずか3年の間に修正を掛けたということになりますね。
この時期は、綱吉治世の前半「天和の治」と称えられる時代でもあります。

内容については、第一条からして「文武忠孝を励し礼義を正すべき」としており、儒学の影響が濃い目。
末期養子の禁を緩和したり、殉死の禁も明文化しました。

また、この時点まで
「大名は武家諸法度、徳川家の直臣については諸士法度で取り締まる」
という区別がされていたのですが、これらを統一して
「武士は全て、武家諸法度に従うこと」
としています。

他にも条文を整理して数を減らしているので、全体的にスッキリさせた感があります。

 

白石主導でより実務的に

続く六代・徳川家宣は、宝永七年(1710年)に改正。
新井白石が関与しており、まず全文を和文体で統一しました。

実は、これ以前の武家諸法度は和漢混交文です。現代人からすると「どっちかにしてくれ」といいたくなるような状況。

内容としては、賄賂に関する戒めや、各地の百姓との争論について条文が追加されています。
これまで教訓という役割が強かった武家諸法度が、少し【実務寄り】になったといえましょうか。

新井白石/wikipediaより引用

七代・徳川家継は幼少で亡くなっており、武家諸法度には手を付けていない……というか、つけられなかったというほうが正しいですかね。

そして八代・徳川吉宗です。

享保の改革でお馴染みの吉宗は、享保二年(1717年)、家宣時代の武家諸法度を廃止し、綱吉時代のものに戻しました。
改革のイメージが強い吉宗にしては、意外かもしれませんね。

さあらに、九代から十二代までの将軍は吉宗と同じく、綱吉時代のものを踏襲しています。
つまり、江戸時代後半になっても、綱吉の政策は悪くないと判断されていたことになります。

やっぱり、前半は良い将軍だったんですかねぇ。

 

さすがにそれどころじゃない!?

十三代・徳川家定もおおむねそのまま使いました。
が、さる事情から、安政元年(1854年)に少し改訂を加えています。

事情とは他でもありません。
外国からの接触です。
海防強化の必要性から、それまで全面禁止だった大船建造について「幕府に届け出をすれば許可する」と変えました。

十四代・徳川家茂もこれを踏襲すると、十五代・徳川慶喜が将軍職に就いていた時期はあまりに短く、江戸城にもほとんどいなかったので、武家諸法度の改訂にまで手を付けませんでした。

慶喜の言動からすると、
「今さら幕府を保てるわけもないし、武家諸法度なんて後でいいわw」
という感じだったのかもしれません。

こんな感じで、武家諸法度は幕末まで一応残っていました。
実情はともかく、幕府の権威が失墜した後になっても、将軍や幕閣にとっての柱のような存在だったのでしょうね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「武家諸法度」
武家諸法度/wikipedia

 



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