江戸時代の株仲間――。
なんていうと「自分たちだけ利益ガッポガッポの悪い商人たち」といった印象がありません?
おそらくや田沼意次あたりの賄賂なイメージが頭から離れないのでしょう。
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株仲間は、単純に「悪」と言いきれる存在でもありません。
江戸幕府から見ても彼らをグループ化させておくメリットはあり、特に徳川吉宗の時代辺りから奨励されるようにもなりました。
本日は江戸期の【株仲間】について見ておきましょう。
江戸時代にも「座」はあれど
まず最初に。
同業者の商売人グループというと「座」はどうなってんの?って疑問が湧いてくる方もおられるかもしれません。
「座」とは平安時代末期~戦国時代に存在した独占的な組合のことで、商人・職人だけでなく芸能や流通業者なども含まれます。
そこへ織田信長等が「楽市楽座」でメスを入れ、後に豊臣秀吉が解体、徳川家康が継承した――という流れは歴史の授業でもお馴染みですが、実は江戸時代にも「座」はあり、これが少しややこしくさせています。
江戸期の「座」は、幕府直営の組織や、それらに監督される組織のことを指すようになりました。
例えば貨幣を作る座や、度量衡のための枡(ます)や秤を扱う座があり、公共機関に近い組織だったのです。
誰もが知っている東京ド真ん中のエリア「銀座」も、元は幕府直営で銀貨を作っていた組織からきています。
お金関係だと、他にも金座・銅座・銭座などがありました。
なお、銀座が地名になるほどの存在感を残したのは、以下のような理由があります。
・経済は、基本的に銀と銭で回っていた ※金座も金貨もあったが日常遣いではなかった
・明治時代に政治の中枢が東京に移った
・同じく明治時代に大きな火災が起きた後、銀座があった地域に煉瓦街などができて、西洋化象徴のひとつになった
だいたいそんな感じで、銀座は「座」のつく地名の代表格にまでなったのでした。
盗品・盗人を取り締まるためにも役立つ
話を「株仲間」に戻しましょう。
戦国時代までにできた座をそのまま放置しておくと、幕府にとっては管理しにくいことになります。
経済力は兵力とも結びつきやすいもの。現に、商人の町だった堺は自前の兵力で戦国を乗り切ろうとしていました。
そのため、京都では三代目の京都所司代・板倉重宗から
「今後、洛中で勝手に座を作ることを禁じる」
というお触れが出されています。
その後も似たような禁止令が何度か出されているので、座に似たような商人の寄り合いがあったのでしょう。
そして、別の意外な理由から、幕府は商人の結束を促すようになります。
・盗品の売買取り締まり
・盗人の摘発
身も蓋もない言い方をすると、
「日頃から同業者でシマを管理させておけば、不届き者が出てきた際にとっ捕まえやすい」
というわけですね。
また、こっそり持ち込まれた舶来品=キリスト教絡みの書物や物品がこっそり広められないように、という狙いもありました。
商人にある程度の自由と団結を認める代わりに、公儀へ協力させようというわけですね。
実際、江戸幕府では、農村でも似たような理由で「五人組」を作らせています。
「仲間」の語源は「中間」から
こうしてまず1640年代ごろから、お金や中古品が直接絡む業界=質屋や古道具屋などについて、幕府が「仲間」を公認し始めました。
いずれ林修先生の番組でも語られるかもしれないので、「仲間」の語源を少し見ておきましょう。
「仲間」は「中間」とも書きました。
「中」という字には「村中」とか「惣中」などの「中」と同じで“差別のないグループ”という意味があり、「間」は「人間」とか「世間」から来ています。
仲間という言葉にぴったりなイメージですね。
その後、廻船問屋や材木屋、両替商など、さまざまな業界で仲間が認められていきます。
幕府としても、「どこの業界でも、ある程度は同業者がまとまってたほうが管理しやすい」というメリットを強く感じていたようです。
時期は、三代将軍・徳川家光や、四代将軍・徳川家綱の頃です。
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社会が新しく活性化してくためには、幕府の政治だけでなく、モノの製造&生産と流通、つまりお金の動きが不可欠です。
しかし、そういうときこそ盗品やボッタクリも横行しやすい。
中には、進んでドロボーと結託するような商人もいたので……そりゃあ取り締まる必要も出てくるワケで。ある程度、日頃から見知っている業界人同士で抑制させたほうが、手間も金もかからないですよね。
あるいは何かを規制したり、新しく法律を作ったときに浸透させるのも手っ取り早い。
そこで各業界で団結力を持ったのが【株仲間】です。
吉宗と意次に先見性があった!?
江戸期の株仲間の原型は、おおよそ八代将軍・徳川吉宗(将軍任期:1716-1745年)の辺りまでに出来上がっていました。
幕府の成立時期から考えるとかなり遅い気もしますが、公的機関ではないので急いで作ることもできなかったのでしょう。
もう少し時代が進むと、株仲間は組織らしく役員や事務所を構え、年始や八朔(8月1日に徳川家康が江戸城へ来たことに由来するお祝い)などもやるようになります。
そこで、次のステージへ向かうことになったのです。
業界が潤うということは、そこに大きなお金の動きが出ます。
しかも、財政がどんどん苦しくなっていく江戸幕府。
その立て直しのカギを見出したのが、徳川吉宗と田沼意次でした。
幕府のみならず各地の大名家は、ある程度、株仲間の存在と販売権の独占を認める代わりに、お金=冥加金を納めさせるようになっていきます。
実質的には税金みたいなものですが、イメージ的には「黄金色のお饅頭(賄賂)」のように思えてしまいますね……って、そろそろこのネタ通じない?(´・ω・`)
多くの組織と同じく、株仲間も徐々に腐敗が目立つようになりました。
職人や奉公人の取り締まりに関する協定を結んだり。
価格が不当に釣り上がったり。
逆にダダ下がったり。
徐々にコントロールが利かなくなっていきます。
そこで天保の改革(水野忠邦)の頃には幕府から
「お前ら最近行状がよろしくないから株仲間は停止!」
とまで言われてしまうのです。
改革の中心人物だった水野忠邦が、
「物価高騰は株仲間の流通独占によるもの。だから解散すれば物価が下がってうまくいく」
と考えていたからでした。
明治維新後は貿易商に圧迫され、解散へ
しかし、水野忠邦の考えは大ハズレでした。
農村の発達と新興商人の台頭が進んでおり、特に地方においては、株仲間の影響力はさほど大きなものではなくなったのです。
株仲間をどうこうするより、別のところに力を入れて改革すべきだったのです。
そのため、三都(江戸・大坂・京都)以外では取り締まりが行き届かず、三都でも株仲間を停止するメリットよりデメリットのほうが大きかく……。ったので、再興が決定。
スムーズな流通を選んだのでした。
ちろん、再興するにも条件はついています。
専売やパチもんの売買をしないこと。
物価を不当に釣り上げずまっとうに商売をすること。
新しく株仲間に加わろうとする者については、明確な理由がなければ拒まないこと。
さらに、新参者から礼金(入会金)をボッタくらないよう、幕府から釘を差されています。散々、失敗を重ねた幕府に言われたくねー!って思ってたかもしれませんが。
しかし、お金に絡んだことはガッチガチに規制が強すぎると、摩擦が生じるもの。
株仲間同士でのトラブルもあり、結局、その輪に加わらない同業者も多かったとか。
★
幕末の開国後、株仲間は貿易商に圧迫されることも多く、経済的にも苦しくなっていったといいます。
そして明治に入ってからは、新政府の意向で株仲間を正式に解散することになり、歴史的な役割を終えました。
各業種の商業組合に移行していった、ともいえますね。
時代の流れも仕組みも大きく変わりましたから、致し方ないところでしょう。
関連
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「株仲間」
株仲間/wikipedia