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江戸時代の男色・BLをナメたらアカン! とにかくバイオレンスで甘みゼロ

男色、衆道――日本史では割とよく出てくる言葉です。

「戦国武将は嗜んでいた人が多いみたいだよ。むしろその趣味がない豊臣秀吉のほうが珍しがられた」なんて話もありますが、これが少々、いや、かなり危険でして。

ある意味、男色は禁断の愛でした。

同性愛がけしからんとか、異常だとか、そういうことではなく、男色がらみのトラブルは刃傷沙汰に及ぶことも少なくなかったからです。

本稿では「江戸時代の男色・BL」を見て参りましょう。

 

日本三大仇討ちの一つも男色のもつれから

例えば曾我兄弟の仇討ち、忠臣蔵と並んで「日本三大仇討ち」とされる、「鍵屋の辻の決闘(寛永11年・1634年)」の発端は、男色がらみのもつれです。

ザックリと話を確認してみますと……。

岡山藩主・池田忠雄のもとに、主君から寵愛される美少年小姓・渡辺源太夫がいました。

その美貌に惚れ込んだ河合又五郎という男が関係を迫るものの、源太夫は拒絶。キレた又五郎が源太夫を殺害してしまいます。

現代ならばストーカー殺人的な話ですね。

犯人の又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれることになりました。

一方、被害者側の藩主・忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求しますが、匿っている正珍にもプライドがありますのでこれを拒絶。そこで大名VS旗本という対立が生まれてしまったわけなんですね。

こうしてすったもんだの挙げ句、源太夫の兄・数馬が姉婿にあたる剣豪・荒木又右衛門に助太刀を頼み、見事討ち果たしたのが「鍵屋の辻の決闘」です。

鍵屋の辻の決闘(日本三大敵討ち)藩主のカレシに横恋慕してブッコロス!

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女性にフラれたら「女ごときにふられたぐらいで」とまだ少しは開き直れるのでしょう。

女性の権利が現在よりはるかに低い当時のことです。こうした傾向は、古代ギリシヤや江戸期の薩摩藩でもあった傾向です。

が、当時の男同士だとどうにもならない面子やプライドがかかってしまうのか。コトが重大になり、死人が出やすかったのかもしれません。

当時の日本だけではなく、

・男子校
・男性だけの刑務所
・男性だけの軍隊

における、男性のみ、あるいは男性多数の環境における性や暴力についても、検証は必要です。こうした被害の把握や研究は、現代においてもまだ進行中の問題。今後の進展が待たれますね。

時代がくだると藩によっては男色を禁止し、流行も廃れてゆきます。

この流れは武士から獰猛さが薄れてゆく流れと一致します。男色というのは、戦場の名残というか、血なまぐささと隣り合わせの風習かもしれません。

 

恐怖の美少年ナンパ師たち とにかく無茶苦茶

前述の通り、武士の男色というのは血なまぐささが伴うこともありました。

言い換えますと、スリルやバイオレンスを求めるイケイケなお兄ちゃんたちは、男色自慢に突っ走りがちであった、とも言えるわけです。

男伊達と呼ばれる青年たちは、美少年をみつければ無理矢理ものにし、「俺、マジ超リア充」と自慢していたということですね。

ここで『武道張合合戦』という書物より、18世紀の男伊達自慢について書かれた美少年ナンパ恐怖の手口をちょっと見てみましょう。

美少年をみかけたら、誰かに頼むとか恋文送るとか、そんなやりとりめんどくさいっしょ。

まずその子の家に行って、親に直接、
「おたくの息子さん超イケてるんで、俺とつきあってもいいッスよね?」
って言えばそれで楽勝。

少し根性の入った親なら、
「ちょっとそんなことできないでしょ!」
とか言うかもしれない。

その時は、
「わざわざ俺ららこうして頼みに来てますよね? んであんたの息子と義兄弟になれないとか、盃交わせないとか、マジありえなくないスか?」
そう言って脅すわけよ。

言葉でのめんどくさいやりとりはこれで終わり。あとは腕まくりした仲間が押しかけると。そして……。

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