川原慶賀「長崎港図」/wikipediaより引用

江戸

賃料毎年1億円! 長崎・出島の意外な歴史~オランダ人は年4ヶ月だけ滞在

寛永十八年(1641年)4月2日は、江戸幕府がオランダ人に出島へ移るよう命じた日です。

江戸時代のオランダ人といえば「最初からそこに住んでいたんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、紆余曲折を経て出島へ移動したのです。

それは果たしてどんな経緯だったのか?

順を追って見ていきましょう。

なお、長崎ネタですが2日連チャンしますが、特に意味はありません(※4/1に「島原大変肥後迷惑」を掲載)

 

はじめはポルトガル商人のためだった

出島は当初、ポルトガル商人のために作られたものでした。

広さは3,969坪。
ポルトガルから納められる年間使用料は、値下げ交渉をした後ですら約1億円(銀55貫目で概算)……という、かなりの高級物件だったのです。

読み方は、江戸時代には「でしま」と「でじま」の二つあり、オランダ含むヨーロッパでの記録では「デシマ」が基本でした。

出島/wikipediaより引用

しかし、【島原の乱】首謀者がカトリックだったことで、風向きが変わります。

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幕府としても「(カトリックの)ポルトガル人と付き合ってるとヤバくね?」(超訳)と考えるようになったのです。

そこに、オランダ商館長が「私たちもポルトガルと同様のものを売れるんで、ポルトガルとは手を切っちゃってくださいよ」と言ってきたため、ポルトガル商人を追い出すことに決まりました。

当然ポルトガルとしては納得いきません。マカオから使者が来たこともありました。

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しかし、幕府は使者を処刑して「二度と付き合わない」ことを示しています。

使者には気の毒な話ですが、これは西洋の介入を防ぐことになって良かったかもしれません。

他国でのヨーロッパ人は、最初に布教や交易を広め、その後、軍事侵略をするのが主な侵略パターンだったからです。

まあ、この時期=江戸時代頃のヨーロッパは、大きな戦争や革命があっちこっちで起きていましたから、はるばる日本まで来て軍事侵略しようなんて思わなかったでしょうし、無理だったでしょうけど。

マカオが日本人奴隷の貿易拠点になっていたこともあり仕方ないですね。

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ポルトガル不在で街が寂れ……

ポルトガル商人たちにお金を落としてもらっていた長崎の町は、当然慌てます。実際、収入源が減って町は寂れてしまいました。

そこで幕府は長崎の経済のため、オランダ商人を出島に住まわせることに決めたのです。

平戸にあったオランダ商館の中を見て、

「キリスト教関連のモノがこーんなにいっぱいあるじゃないですか! あー怖い怖い!! 怖いから出島に引っ越してね! そこから出ないでくださいね!!!」(超訳)

と強引に話を進め、オランダ商人を出島に押しこめたのです。

シーボルト著『NIPPON』に掲載された出島/Wikipediaより引用

そしてそこから幕末まで、オランダ人との交渉は原則出島で行われます。歴史の授業で習うのはこの辺の話ですね。

 

シーズンのオンオフがくっきり分かれてた

では、実際の出島は、どんな様子だったのでか。

と、これがオンシーズンとオフシーズンがはっきり分かれておりまして。

毎年夏になるとオランダ船が来港し、同じ年の年末まで滞在して、この間の約4ヶ月がオンシーズンです。当然ながら人が増える分、諸々の需要も増えるので、周辺の経済も潤っていたとか。

オランダ船がやってくる様子を描いた川原慶賀筆「唐蘭館図 蘭船入港図」/Wikipediaより引用

反対にオフシーズン、つまり真冬から翌年の初夏くらいまではガッツリ減ります。

商館長以下の商売を行いに来た人々と、その使用人たち合わせて15人くらいしかいなかったといいますから、かなりの差があったでしょう。そして……。
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