緒方洪庵/Wikipediaより引用

江戸時代

緒方洪庵は聖人かっ!? 適塾で医師を育て種痘撲滅にも奔走 しかし最期は……

人間、誰しも腹の中に幾ばくかの黒い部分がありましょう。

しかし、ごく稀に、文字通りの「聖人」としか思えないような人もいます。

今回は江戸時代にいた、そんな人のお話。

文久三年(1863年)6月10日は、緒方洪庵(こうあん)が亡くなった日です。

この時期に活躍していた蘭学者・医師の中でも特に高名な人ですが、前半生は苦労の連続。

まぁ、晩年もある意味、不幸なのですが…….

いつも通り順を追ってみていきましょう。

史跡・緒方洪庵旧宅および適塾の内側

 

家督は継げず藩の財政も逼迫 とにかく勉強!

洪庵は、現在の岡山県西部にあった足守藩士の三男として文化七年(1810年)に生まれました。

長兄は夭折していたため、次兄が跡継ぎになっています。この次兄が健康かつ文武両道で、いかにも武家の跡継ぎらしい人でした。

他に姉が一人いて、和歌を得意としており、洪庵にも素養があったようです。

父は身分が高いとはいえませんでしたが、藩の経済や訴訟に関する仕事をしており、学問や文化も身につけていた知識人でした。

そんな環境のもと、洪庵は早いうちに自身の将来をどうするか、と意識するようになったようです。

武家の男子は、跡継ぎでない場合はどこかへ養子に行くか、出家するか……あるいは部屋住みという名の穀潰しとして白眼視されるかのどれか。

跡継ぎ候補の次兄が健康で無事に家督を継ぐと思われていれば、その下の洪庵が将来に不安を抱いたのもごく自然なことだったでしょう。

また、洪庵一家がお世話になっている足守藩も、経済的にはご多分に漏れず窮乏しており、藩校や私塾が機能していないという厳しい状況でした。

洪庵の父を含め、藩士の給米なども半減されるほどです。

そのため、洪庵は父や兄から読み書きや漢籍を学んでいたと考えられます。

また、小さい頃体が弱く、兄のように武道に励むということも難しく思われました。

 

医師を目指して大坂の中天游塾へ入門

運命がにわかに動き始めたのは洪庵13歳のとき。

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身の振り方を決めかねていた洪庵は、ここで「医師になって生計を立てられるようになろう!」と決意。16歳で元服し、翌年大坂の中天游なかてんゆう塾へ入門します。

事後承諾ではありましたが、父から「息子に学問をさせたいので、藩を離れることをお許し下さい」と藩主に頼んでもらっていたため、脱藩ではありません。

藩としても武士が多すぎると養いきれませんし、自力で稼げるようになりたいというのは大歓迎だったでしょうね。

洪庵の最初の師匠である天游は、大槻玄沢の弟子だった人です。

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医学の他に国学や神道、蘭学にも造詣が深く、洪庵は幅広い分野の知識を得ることができました。

一方、そのヤル気と頭脳を評価した天游は、洪庵に対して「江戸でもっと勉強したほうがいい」と勧めます。

 

江戸にはスグに入れない!? 木更津で1年ほど準備を整え……

かくして師の勧めに従い、21歳で江戸に向かった洪庵。

当時の私塾は入学金として師匠に進物を送らなければならず、すぐに用立てることができませんでした。

そのため、木更津あたりで一年ほど、周辺の医師に蘭学や西洋医学の知識を与えて、対価にお金をもらって準備しています。

当初は泊まるところもなく、見かねたとあるお寺の住職が「それならうちにお泊まりなさい」と声をかけてくれたのだとか。これぞ正しき聖職者という感じですね。

このお寺が何というところだったのか。洪庵に声をかけた僧侶が誰だったのか。

詳細ははハッキリわからないようです。

徳川家康の歌で有名な證誠寺しょうじょうじという説もありますが、どうだったんでしょうね。

というか、天游も推薦するならせめて下宿先を斡旋するなり、頼れそうな人物を紹介する成まではしてもいいと思うんですが(´・ω・`)

苦労の末、一年後にやっと当初の目的である坪井信道しんとうの塾へ入門します。

何の後ろ盾もない洪庵は、入塾後のビンボーぶりもスゴイもので、内職をして学費を稼いでいました。

そんな姿を、他の塾生にからかわれることもありましたが、師の信道は、洪庵の熱意と立場を理解し、目をかけるようになります。

信道も、かつては洪庵に負けないレベルのビンボーで苦学していたので、他人事とは思えなかったのでしょう。

おそらく洪庵をバカにしていた連中は、昔のお師匠様の境遇を知らなかったのでしょうが……気の短い人だったら、引っ叩かれていてもおかしくありませんね。

 

長崎での診療生活を経て大坂へ

信道はさらに、自分の師匠(洪庵からすれば大先生)の宇田川玄真に紹介。

様々な人との繋がりに助けられ、洪庵は知識を貪欲に吸収していきます。

そして一通り江戸で医術を学んだ洪庵は、26歳のとき長崎に行き、西洋医学を吸収しながら医師として身を立てることにするのです。
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