緒方洪庵/Wikipediaより引用

江戸

緒方洪庵は聖人かっ!? 適塾で医師を育て種痘撲滅にも奔走 しかし最期は……

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
緒方洪庵
をクリックお願いします。

 

江戸にいた頃、薬屋を営んでいた億川百記の娘・八重と婚約しており、長崎での学費は舅からの工面でやりくりすることができました。

婚約の段階で金を出してやるというのも随分気前のいい事ですが、百記は信道の塾に出入りしていたので、洪庵の人となりをよく知っていたのでしょう。

娘を安心して託せる人物だと確信したからこそ、夫婦揃って苦労しないように、未来の婿の世話を焼いたということでしょうか。いい話や。

長崎では、3年ほど診察をしていました。

オランダ人の誰と付き合いがあったかは不明ですが、当時の長崎では通詞(通訳)のツテでオランダ人と交流したり、オランダ商館を訪ねることができたそうです。

洪庵も、オランダ人と接触する機会は多々あったでしょうね。

その後一度、足守に帰り、家族と再会。その年のうちに大坂の瓦町で適塾を開業します。

この頃の大阪は【大塩平八郎の乱】や【蛮社の獄】が起きた後で、西洋の学問が白眼視されていた頃です。かなりの度胸ですね。

大塩平八郎の乱 あっさり半日程度で鎮圧されたのはなぜなんだ?

続きを見る

蛮社の獄と渡辺崋山 ほぼ冤罪で自害させるのは余りに惜しい人材だった

続きを見る

師匠の天游も塾を続けていたので、お互い励まし合いながら教育や医学に励んでいたのかもしれません。

 

適塾は「勉学第一! 個性尊重!」

開業して一段落した頃、八重と結婚しています。

挙式は大坂だったため、岡山県の両親は臨席していません。

翌年夫婦で足守に行き、正式にあいさつを済ませました。その後も双方の実家と良い関係を築いていたようです。

また、足守藩主・木下利愛(としちか)から無事に医学を修めたことを褒められ、特別に三人扶持を受け、さらに励むよう命じられています。

洪庵は開業して次の年に、大坂の医師番付で「前頭」と評価されており、仕事が順調だったことがうかがえます。

それに従って塾生が増えたため手狭になり、洪庵35歳のときに瓦町から過書町へ移転しました。

現在残っている適塾はこちらのほうです。

史跡・緒方洪庵旧宅および適塾

塾の気風としては、勉学第一・個性尊重といったところでしょうか。

塾の中では階級があり、蘭学の理解度によって上がっていきました。階級が上がると塾の中でより良い場所が使えるので、みんなやる気を出したといいます。

その他のことについては洪庵はあまり口出しせず、塾生の個性を尊重していました。

門下だった大村益次郎や福澤諭吉があんな感じになったのも、お師匠様のポリシーによるものということでしょう。

生活ぶりについても奔放なもので、これは福澤の回顧録「福翁自伝」がわかりやすい……というかぶっ飛びすぎてて笑えます。

『福翁自伝』で腹筋崩壊! 諭吉は堅物どころかファンキーでロックだぞ

続きを見る

 

「事に臨んで賤丈夫(せんじょうふ)となるなかれ」

適塾での蘭学の勉強は、まずオランダ語の文法などの基礎的なことから始まります。

当たり前といえば当たり前ですが、基礎をきっちりやる期間が長いので、医学の実技に入るまでが非常に長いという欠点もありました。

そのため、実家の困窮などによりすぐ医師として身を立てねばならなくなった塾生は、洪庵に頼んで別の塾を紹介してもらうこともあったといいます。

塾の方針を曲げず、適した場所へ移せば、他の塾生からやっかみを買うこともない……ということですかね。理由がわかっていても、いらぬ嫉妬をたぎらせる輩というのはどこにでもいますし。

適塾には毎年十数人~数十人入ってくるので、卒業する人数も多くいました。

洪庵からは最後の教えとして「事に臨んで賤丈夫(せんじょうふ)となるなかれ」という言葉が送られたそうです。

まだまだ西洋医学に対する偏見が強かった中ですから、かなり意訳すると「心無い罵倒などに負けて医学の本質を忘れるな」という意味でしょうか。

ほとんどの卒業生は、故郷に帰って開業医になったようです。洪庵は卒業生ともよく手紙のやり取りをして、治療方針の相談や近況報告などもしあっていたとか。

あまりにイイ人・イイ先生すぎて胡散臭いほどですが、温厚な人柄で知られていた洪庵ですので、本当にこうだったんでしょうね。

むしろ日頃から塾生がアレコレやっても洪庵が何もいわないので「先生が微笑んでいるときのほうが怖かった」と思われていたそうです。塾生は、なんぞやましいことでもあったのか?と……。

 

「牛になってしまう」デマと戦いながら種痘摂取を推し進める

さて、洪庵が40歳になるあたりから、世界情勢の変化により、英語の必要性を感じてカリキュラムに取り入れるようになりました。

また、佐賀藩から種痘(天然痘のワクチンのようなもの)を入手し、大坂で除痘館という接種施設を作っています。

後には故郷の足守藩からも要請され、同じ施設を開設しました。

当初は「種痘は牛から作っているから、射たれると牛になってしまう」といったデマが広がり、なかなか進まなかったそうです。

しかし治療費をとらずに努力した結果、接種人数が増えていきました。

うまくいき始めたかと思いきや、今度は偽業者が現れるという有様です。次から次へと出る問題でイライラしたでしょうね。表には出さなかったかもしれませんが。

洪庵はめげずに幕府にかけあい、除痘館だけを公認の種痘接種所にしてもらうことにします。

天然痘という当時屈指の難病を予防した偉業に対し、幕府は奥医師と西洋医学所頭取という職務を与えることで報いようとしました。

洪庵はあまり乗り気ではなかったようですが、お上のいうことなので従い、数十年ぶりに江戸へやってきます。

しかしその翌年のことです。

突如の喀血による窒息で亡くなってしまいます。一体何の病気だったんですかね。

奥勤めをするようになってからは無用な人付き合いのために出費がかさんだり、蘭学者であることからやっかまれることも多く、かなりのストレスを感じていたともいわれていますので、その辺が原因でしょうけれども。

洪庵が亡くなった頃は、福沢が文久遣欧使節の任務を終えて帰国し、いろいろと忙しくしていた時期とかぶります。

幕末・文久遣欧使節団の食事がツラいって! 洋食は臭くて食えたもんじゃない?

続きを見る

もし洪庵の健康がもっていれば、福沢が直接見てきた西洋のあれこれを伝え聞いて、江戸城内で活かすこともできたのでしょうね。

福沢は後に北里柴三郎とも交流を持っておりますし、日本医学の発展がもっと早まったかもしれません。

何とも惜しい話です。

あわせて読みたい関連記事は以下へ

ペスト日本上陸を食い止めた北里柴三郎「細菌学の父」は義にも篤い人

続きを見る

シーボルトは生粋の親日家? あの事件から30年後に再来日してましてん

続きを見る

大槻玄沢とは? 玄白と良沢から才能(著作は300冊)を愛された一関藩の医師

続きを見る

大塩平八郎の乱 あっさり半日程度で鎮圧されたのはなぜなんだ?

続きを見る

蛮社の獄と渡辺崋山 ほぼ冤罪で自害させるのは余りに惜しい人材だった

続きを見る

『福翁自伝』で腹筋崩壊! 諭吉は堅物どころかファンキーでロックだぞ

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】

国史大辞典
『緒方洪庵 (人物叢書)』(→amazon link
緒方洪庵/Wikipedia
適塾/Wikipedia

TOPページへ

 



-江戸
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.