享保十四年(1729年)4月21日、天一坊改行という人物が処刑されました。
【天一坊事件】というのを起こしたのですが、受験にはまず出ませんし、ご存じない方も多いでしょうか。
将軍・徳川吉宗のご落胤を名乗り「私は近々大名に取り立てられるだろう!」なんて言い始めたため、召抱えてもらおうという浪人がわんさか集まり、騒ぎになりました。
後世の我々から見ると滑稽としか思えないんですけどね。
それでも堂々と言い切られると信じてしまうのが人情というものでしょうか。
事件のあらましを振り返ってみましょう。
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天一坊「わたしは吉宗の息子であるぞ!」
高貴な人物が、こっそり別の女性に産ませた「ご落胤」。
将軍様の元でデキる理由(というか経緯)は大きく分けて二つあります。
一つは二代将軍・徳川秀忠と保科正之のように、大奥の中や城内の身分の低い女性に手をつけてしまった結果、生まれてきたケース。
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もう一つは、地元の女性と行きずりの関係を持ってしまった場合です。
どっちもベタですね。
特に吉宗の場合、若い頃から身体頑健で昼も夜も大変お元気だったそうなので、地元で手をつけた女性は数知れず。
この天一坊の件について報告があった際も、
「あぁ、身に覚えが……あると言えばあるんですよねぇ(´・ω・`)」
という反応だったそうです。あーあ。
吉宗どころか世界中いつでもどこでも同じなんですけども、デキて困るような相手と関係を持つなという話ですね。
「“吉”の字を大切にしなさい」
当の本人がこんな調子ですからね。
いくら眉唾でも天一坊を即座にしょっ引くわけにはいきません。
各所の担当者が慎重に慎重に調べ、本人にも聴取をした結果、ある意味、当たり前の事実が判明します。
ご落胤説は彼の思い込みでした。
面白いのは、思い込むまでの経緯でしょう。こんな感じです↓。
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