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【引越し大名・松平直矩】
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越後騒動に巻き込まれ、再びアッチコッチの流転LIFE
このとき、長男である直矩は、わずか5歳でした。
しかし「姫路は重要な場所だから」という理由で、翌年には越後村上藩への転封を命じられます。
成人してから改めて姫路藩に封じられたものの、今度は本家にあたる越後高田藩で越後騒動が起きてしまいました。
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直矩は、越前松平家の親戚である松平近栄と共に越後騒動の仲裁に入ります。
その際、幕府から不手際を咎められ、またもや減封、さらに「閉門」という昼夜ともに外出できない刑罰を申し付けられました。
父の代から続く流転ライフの再開。数年おきにあっちこっちの藩へと転封させられます。
天和二年(1682年)豊後日田藩
貞享三年(1686年)出羽山形藩(3万石加増)
元禄五年(1692年)陸奥白河藩(5万石加増)
格式の上では元に戻ったものの、父・直基の代から実に7回も移転させられ、財政は見るも無残な状況に……。
世間からも「引っ越し大名」などと揶揄されて武士の面目もあったもんじゃございません。
直矩個人の失政ではないのに、ひどいものですね。
直矩の辛抱強さや優しさはハンパじゃない!?
直矩は、そんな悪評など気にせず、真面目に仕事に励みました。
家臣の給料を削ったせいで反発されたこともありましたが、お家騒動や事件にまでは至っていないので、深く恨まれることはなかったのでしょう。
功績と呼べるほどのものは無いながら、17歳から54歳で亡くなるまで『大和守日記』というご自身の日記を書き続けていることは、後世からするとありがたいことです。
日常の藩政や天気のことから、鷹狩・観劇などの気晴らし、お家騒動までのことが書かれているのです。
江戸時代初期の大名の生活が我々に伝えられることになりました。
少し変わったところでは、
「江戸詰の藩士の気晴らしのため、人形浄瑠璃の一座を屋敷に呼んだ」
なんてことも書かれています。
直矩自身が観劇や音楽を好んだためでしょう。
当時の観劇は庶民的な娯楽でしたし、少なくとも良かれと思ってやったのでしょうね。
江戸時代の大名家では、主君に不満を持って逆らう家臣や、藩主自身がヤケになって放蕩に耽るケースが少なくありません。
そこを考えると、直矩の辛抱強さや優しさは特筆してもいいのでは。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『松平直矩と村上―『松平大和守日記』を読む―』(→pdf)
『御家断絶―改易大名の末路 (別冊歴史読本 15)』(→amazon)
松平直矩/wikipedia