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授業中でもケンカ上等!? 会津藩校「日新館」はやはり武士の学校です

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授業風景は現代の学校とは大きく違います。

素読所では等級ごとに教室を分けない。

等級ごとにバラバラな生徒が、大声で自分の学習箇所を読み上げる。かなりうるさい。

わからないところがあると先生に大声で聞く。やっぱりうるさい。

そして授業中でも喧嘩上等です。

硯を投げて火鉢をひっくり返す大騒ぎになっても、先生も周囲もなかなか止めない。

「武士は戦ってこそ」というわけです。

喧嘩をしても怒られない代わりに、負けて帰ると親に「武士のくせにだらしない!」と叱られる。

もしも現代人が日新館にタイムスリップしたら「これ、学級崩壊だよね?」と、たじろいでしまでしょう。

ドラマ等で藩校のシーンが出ますと、整然&淡々と講義を受けていますが、実際はかなり騒々しかったのです。

 

数学などは商人のやること 九九もできなかった!?

日新館には必修だけではなく、選択科目もありました。

数学、医学、雅楽(音楽)、天文学等。

ただし理数系は不人気で、数学などは商人のやること、そんなものを習うのは武士の風上にもおけないとされていました。

のちにイェール大学で物理学の学位を取得し、東大総長となった山川健次郎は、17才になるまでかけ算九九すらできませんでした。

そこから物理学の学位を取得するのですから、彼には相当な適性があったのでしょう。

「数学を習うことが難しくて、日本史や地理も習えないのは、カリキュラムとしては問題があった」

山川はそう回想しています。

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また、日新館では武道も学びました。

刀、槍、弓、馬は必修です。

しかし砲術は「足軽の武器で卑劣な飛び道具だ」として不人気。この考え方は、戊辰戦争において大きなマイナス要因となりました。

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「日新館」の教えは今も受け継がれる

多くの人材を輩出した学び舎日新館。

会津戦争では病院として使用され、戦火の中に焼け落ちてしまいました。

現在は観光施設として、会津若松市郊外に再建されています。

そして明治を迎え、多くの藩では藩校の流れを汲む近代的な学校が誕生しました。

たとえば長州藩明倫館の流れを汲む萩中学校は、明治3年(1870)に開校しています。

しかし、戦火に荒れ果て、また朝敵として冷遇された会津の地には、なかなか学校ができませんでした。

明治12年(1879)に中学校ができたものの、すぐ閉校にされてしまいます。

これを嘆いたのが、かつて日新館で学んだ元藩士たち。

山川浩、山川健次郎、高峰秀夫、高木盛之輔(姉・時尾は斉藤一の妻)らは会津の人々に訴えかけ、カンパを募ります。

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ところがタイミング悪く明治21年(1888年)、磐梯山が噴火。会津は被災してしまいます。

それでも旧会津藩士たちは根気強く資金を集め、明治23年に(1890年)「市立会津中学校」(現在の福島県立会津高等学校)の開校にこぎつけたのでした。

会津高等学校

また、会津の子供たちは現在でも「あいづっこ宣言」という、会津藩の伝統教育の流れを汲む教えを習うそうです。

伝統は今も現役ですね。

よりよい社会のためには教育は大切です。

それは江戸時代の人々にも同じだったようで、様々な藩校が日本各地にありました。藩校の歴史をたどれば、教育の源流も見えてくるというワケで。

皆様も周囲の名門校などを調べてみると面白い発見があるかもしれませんゾ。

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文:小檜山青

【参考】

『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon
會津藩校日新館(公式サイト)

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