上田秋成/wikipediaより引用

江戸時代

『雨月物語』の著者・上田秋成~鹿島稲荷の予言を超えて長生きする

文化六年(1809年)6月27日は、作家の上田秋成(あきなり)が亡くなった日です。

『雨月物語』などの作者で、知名度は作品名>>>作家名という気がしますね。

何回か名前が変わっていますが、例によって「秋成」で統一しながら振り返ってみましょう。

雨月物語表紙/wikipediaより引用

 

父は不明ながら17歳で紙油商人の元へ養子入り

秋成は享保十九年(1734年)、大坂・曾根崎でとある女性の私生児として生まれました。

父親は定かではないとされていますが、当時の一般庶民であれば珍しくはない状況だったでしょうね。

決して恵まれているという生まれではないながら、3歳のときに紙油商を営む上田茂助という人の養子に入れたのは幸運でした。

しかし、養子入りの翌年に疱瘡(天然痘)にかかってしまいます。

まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」。

義父・茂助は、加島稲荷神社(現・香具波志神社)へ秋成の回復を祈願しに行くと「お前の子は68歳まで生きられるだろう」というお告げが降ります。

これを聞いた秋成も気持ちが前向きになったようで、なんとか回復。

後遺症として手の指が不自由になってしまいましたが、それ以後は秋成も加島稲荷へ何度も参詣しに行っています。

そしてこのことが後々、彼を大きく助けることになります。

 

様々な和書・漢書に親しみ、17歳で俳諧を始める

成長するにしたがって、秋成は文学の世界にのめりこんでいきました。

17歳の時から俳諧を始め、さまざまな戯作や和書・漢書を読んで知識を蓄えたといいます。

商家の跡継ぎとして26歳のとき結婚し、残念ながら子供には恵まれていません。

結婚の翌年には義父が亡くなり、店を継いでいます。

商売に励みつつも学問を続けていたようで、30歳のときには大坂へやってきた朝鮮通信使と筆談したとも。漢籍の素養があったからでしょうね。

そして32歳のとき、商売を続けながら初の著作『諸道聴耳世間猿しょどうききみみせけんざる』を発表します。

翌年にも作品を発表していますし、割と多作型の作家だったようです。

国学者や医師とも交流していますので、創作意欲が刺激されやすい環境だったのかもしれません。

あるいは、やる気を保つために幅広い知識を得ようとしたのでしょうか。
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