田沼意次/wikipediaより引用

江戸時代

田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人!? 現代評価の見直し進む

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
田沼意次
をクリックお願いします。

 

都市圏へ流れ出る農民が増えて犯罪が増える

世の中が重商主義になると、その反動で農業が軽視され、農民の暮らしが厳しくなってしまったことも反田沼の動きへ繋がる一因でした。

誰だって、苦しい仕事よりは少しでも楽な仕事を選びたいワケで。

そうした元農民が都市圏に流れ込んでいったのですが、そう簡単に職が見つかるわけもなく、やがて物盗りなどの犯罪で生き延びようとする者が増えていきます。

結果として、地方でも都市部でも「田沼のせいで生活が苦しくなった!!」という怨嗟の声が高まってしまうのです。

さらに、意次が蘭学や実力主義を重んじたことにより、幕閣保守派の反発を買ってしまいました。

こうして意次の評判がダダ下がりする中、息子で若年寄を勤めていた田沼意知(おきとも)、江戸城内で旗本・佐野政言(まさこと)に暗殺されるという事件が起きてしまいます。

動機がハッキリしなかったため、幕府は「乱心による犯行」として処理しましたが、田沼家に対する恨みが積もり積もっていた民衆は「自業自得」とみなしたようです。

公的には罪人とみなされたにもかかわらず、政言を「世直し大明神」と崇め、墓参りをする者も多かったとか。

当時、認められていた親や主君の「敵討ち」ではないので、江戸時代の基準でも政言は「殺人事件」のはずなんですけどねぇ。

日頃の印象の強さがよく出ています。

 

 

領地も財産も何もかも全て奪われ失意のうちに江戸で死亡

さらに意次にとって運の悪いことに、このタイミングで徳川家治が病気になってしまいました。

徳川家治(十代将軍)はリアリストで有能 しかも人情味も兼ね備えていた!?

続きを見る

そこからはあっという間に老中を辞任させられ、領地を没収され、大坂の蔵屋敷と江戸屋敷の明け渡しまで命じられています。

私怨のかほりがプンプンします。おそらく既に家治は亡くなっていたか、政治に口を出せる状況ではなくなっていたのでしょう。

その後、蟄居と二回目の減封に加え、相良城は破却され、城内の金や米まで没収。

意次は失意の中、天明八年(1788年)に江戸で亡くなりました。

田沼家自体は、孫の龍助が陸奥1万石に減・転封の上で、何とか大名として存続しています。

さらに意次の死から35年後、四男の意正が陸奥下村藩(福島県福島市)から相良に復帰し、城跡に陣屋(屋敷)を建てて政庁としていました。

彼は若年寄なども務めており、一応復権した……ことになりますかね。

明治元年(1868年)に意正の孫・意尊が上総小久保藩(現・千葉県富津市)に移されるまで、田沼家は相良にいたようです。

明治維新の後、田沼家は子爵に叙されました。

が、経済的負担からか、後に爵位を返上し一般人となっています。中には南米に移り住んだ人もいるとか。

「賄賂政治家」から「有能な経済人」へ。

田沼意次の見直しがもっと進めば、ご子孫の方たちも鼻高々……とまでは難しいですかね。

あわせて読みたい関連記事

新井白石はなぜ出世できた? 家宣に引き立てられ、吉宗に追い出された生涯

続きを見る

土井利勝は家康の隠し子なのか? 参勤交代や寛永通宝など江戸時代の基盤を作る

続きを見る

徳川吉宗が将軍になるまでのミステリー 7名の重要人物が次々に死亡って!?

続きを見る

在位3年で死亡の六代将軍・徳川家宣は清廉クレバー! 知られざる実績が凄い

続きを見る

大奥夜遊びスキャンダルの煽りを食った間部詮房~実は日本史屈指の出世人

続きを見る

徳川家重の「小便公方」はあんまりだ……実は引き際鮮やかだった9代将軍

続きを見る

天明の大飢饉は浅間山の噴火とヨーロッパ火山のダブル噴火が原因だった!?

続きを見る

徳川家治(十代将軍)はリアリストで有能 しかも人情味も兼ね備えていた!?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon
『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
田沼意次/wikipedia
田沼氏/wikipedia

TOPページへ

 



-江戸時代
-

© 2020 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)