浅野長矩/Wikipediaより引用

江戸時代

浅野内匠頭(浅野長矩)が吉良上野介に斬りかかったのは金銭問題から?

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二度目の勅使饗応役を言い渡されて……

後々のこともきちんと考えています。

長矩は元禄七年(1694年)に、弟・浅野長広を仮養子としているのです。

結婚して10年近く経っても子供が生まれなかったからで、ちょうどその翌年に浅野長矩が疱瘡にかかってしまいました。

一時は危篤になるほど危うい状態だったそうで、このときも速やかに長広を正式な養嗣子とし、無嗣断絶を防いでいます。

その後、長矩が回復したため、すぐに長広へ家督を継がせることはありませんでした。

しかし、長矩の危篤については、国元にも速やかに伝えられていました。主従ともに、いざという時の心得もあったと見ていいでしょう。

家臣の助けがあったにせよ、お馬鹿な殿様のせいで台無しになった藩も珍しくないのですから、長矩は決して無能ではなかったはずです。

だからこそ「松の廊下の刃傷」と元禄赤穂事件の異様さが際立つことになります。

元禄赤穂事件のきっかけとなった二度目の勅使饗応役は、元禄十四年(1701年)2月4日に任じられたものでした。一度めの饗応から18年後のことです。

このときの指南役も、吉良義央でした。

気の置けない仲とまではいかないにしても、ある程度頭の中に手順や段取りは入っていたと思われます。

義央から見れば、「あの小僧が立派な大人になったものよ」というように見えたかもしれません。

前回と違う点としては、長矩が饗応役に任じられた頃、義央は別の仕事で上洛していて、三週間ほど打ち合わせができなかった時期があるというところでした。

この間に勅使・院使はすでに京都を出発していたため、猶予はほとんどない状態。これが長矩に大きなストレスをかけたのではないか、とする説もあるようです。

 

最も重要な儀式の日に「松の廊下」事件は起きた

義央が江戸に戻ってきたのは2月29日のことです。

勅使が到着したのは3月11日でしたので、一応、長矩と義央が話し合う時間はあったでしょう。

が、この手の儀式の準備をするにはギリギリといっても過言ではないかと。

3月13日までは無事に饗応や儀式が進んだものの、14日に例の「松の廊下」事件が起きます。

この日は、勅使・院使に渡された天皇と上皇の手紙に将軍が返事をするという、最も重要な儀式の日でした。

もちろん、長矩もそれは重々承知していたはずです。

だというのに、長矩は儀式の直前に義央へ斬りかかってしまいました。

忠臣蔵/Wikipediaより引用

現場の「松の廊下」は正式名称「本丸大廊下」。廊下沿いに松林と千鳥の絵が描かれた襖があったため、このように呼ばれていたところです。

位置的には、江戸城の公的行事場である「大広間」と、将軍が諸大名との面会に使う「白書院」を繋ぐ廊下でした。

当然、この日は大広間にも白書院にも、饗応役や指南役、その下働きをする人々などがいたはずです。

ただの口ゲンカだったとしても、すぐに他の人が割って入ったことでしょう。

また、長矩が犯行に使ったのは脇差というやや小振りの刀でした。

武士のことを「大小二本差し」と呼ぶことがありますが、このうち「小」が脇差です。「脇指」と書くこともありますね。

脇差はどちらかというと斬るより突くことに向いた武器ですが、このときの長矩は義央の額と背中に”斬りかかった”ため、致命傷を負わせることができませんでした。

義央と話していた人が即座に長矩を取り押さえたためにそれ以上の攻撃もできず、周辺の部屋からも院使饗応役・伊達宗春などが駆けつけてきました。

義央と長矩はそれぞれ別の部屋に引き離され、事の次第が徳川綱吉へ報告されます。

さて、綱吉は、どんな判断を下したか……

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なぜ長矩は田村家に預けられたのか……

元々綱吉は儒学を重んじており、それ故に皇室への尊崇も歴代将軍の中で随一でした。

その綱吉が勅使と院使、ひいては天皇・上皇への返事をする大切な機会を台無しにされたのですから、これは激怒どころの話ではありません。

長矩の取り調べが行われたかどうかもはっきりした記録がないのですが、綱吉が即日切腹を命じたことは確かです。

その頃、長矩は奏者番を務めていた陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷に預けられていました。

ここも、個人的には少し気になります。

この頃の田村家は、仙台藩二代藩主・忠宗が母・愛姫の実家を再興させるために、自分の息子を入れた家でした。

つまり、長矩と同時に院使饗応役をしていた伊達宗春(こちらは伊達政宗の庶長子で宇和島藩初代・伊達秀宗の孫/伊予吉田藩主)とは同族にあたるわけです。

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普通、大名家で何か問題が起きた場合は身内が引き取ることが多いものです。

お家騒動などが起きた場合は、だいたい親戚筋や正室の実家などが事の処理にあたります。

勅使饗応役がこのようなことになった上で、院使饗応役の親戚までこのようなことに駆り出されては、饗応に過不足が生じそうな気がしますが……それこそ勅使や院使へ迷惑がかかりそうですよね。

一応、田村家はこのとき「奏者番」という幕府と藩の間を取り持つ役目をしていたのだけれども、それは自藩と幕府のためであって、外様大名同士の場合はあまり関係ないような気がしますし……。
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