これだけ読むと高尚な方に思いますが、実は結構ゲスい御仁ではないでしょうか……。
早速、振り返ってみたいと思います!
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賄賂&国替えのダイナミック忠邦
忠邦は寛政6年(1794年)、唐津藩主の次男に生まれました。
おにーちゃんが早死にしたため、そのまま世継ぎとなるのですが、水野家といえば先祖を辿ると家康の母・於大の方に繋がる名家です。
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当時の唐津藩は6万石ながら、実質の石高は25万石とも言われ、大変恵まれた藩だったのです。
そこで跡を継いだ忠邦は「オレ、幕閣になって活躍したーい!」と思い立ち
・莫大な賄賂を使って出世
『奏者番』という、将軍と大名のあいだを繋ぐ中々の役職を貰いました。
さてここからもっと出世だー!と息巻く忠邦は
【唐津藩は長崎の警備があるから藩主が江戸詰だと困るよね〜】
という事情に気づいてしまいます。
どうしても出世したい忠邦。
家臣が止めるのも聞かずに「国替えよろしくお願いしまーす」と浜松にお引越しをするのです。
浜松藩も6万石ですが実石は15万石(5万程度では?という指摘も)ですから、唐津に比べて5分の3になっちゃった訳です。
しかもこの時、家老の二本松大炊が忠邦を諌めるべく腹を切っておりますから、「あ〜あ~!」と悶絶したくなるも、実のところ作戦が的中して出世を果たし、寺社奉行の職をゲットすると、トントン拍子で老中首座となるのでした。
老中首座というのは、内閣総理大臣みたいなものですね。詳細は以下の記事をご参照ください。
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天保の改革っ!
さて、徳川家慶が12代将軍になり、大御所政治をやっていた子作り将軍の徳川家斉が死ぬと、忠邦は幕府の財政を立て直すべく改革をはじめました。
俗に言う『天保の改革』です。
忠邦は、家斉の寵臣を追っ払うと、鳥居耀蔵や遠山の金さんを登用。
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改革のコンセプトは「享保、寛政の改革いいね!」でした。
どういうことか?というと
米マンセー!
贅沢禁止!
物価が高いのは商人がつるんでいるから!
となります。
米作りが大切だから都会にいる農民は田舎に帰れ(人返し令)と冷たいし。
お前らたるんでるから娯楽禁止な(贅沢禁止、歌舞伎など芸能の制限)と余計なお世話だし。
商人つるむなー(株仲間の解散)と経済に口出しまくりだし。
質素倹約をベースに幕府の財政を豊かにして、物価を下げようとするのです。しかし……。
幕府の財源として貨幣の質を下げたためハイパーなインフレが勃発。
物価が上がるは、娯楽は取り締まるわで庶民から大ブーイングを受けるばかりか、大名や旗本からも【上知令】への反発が酷く、わずか2年で失脚してしますのです。
上知令(あげちれい)とは、江戸・大阪周りは全部幕府の土地にしちゃう代わりに、本領近くに土地あげるね、という制度です。
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