宝暦七年(1757年)9月28日は、蘭学者で医師の大槻玄沢が誕生した日です。
何やら見覚えのあるような、ないような。
そんな印象の方が多そうですが、彼と共に活躍した人物のキャラが濃いため、ドコか記憶がボヤけがちになっても仕方ない気がします。
彼の生涯を追ってみましょう。
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大槻玄沢→玄白と良沢から一字ずつ貰って
玄沢は、一関藩(現・岩手県)の医師の家に生まれました。
9歳のとき父が藩医となり、お偉いさんとの接点ができています。
その後、地元の医師に弟子入りし、22歳のとき江戸へ遊学。
杉田玄白の私塾に入り、玄白からは医学を、『解体新書』の共著者である前野良沢からはオランダ語を学び、着々と学を修めていきました。
キャラが濃いとは、この杉田玄白のことです。
学校の歴史で肖像画を見たときに、思わず目を奪われたことはありませんか?
大槻玄沢の「玄沢」とは、この玄白と良沢から一文字ずつもらった通り名なんですね。
本名は「茂質(しげかた)」になります。
師匠たちの縁で、玄沢は仙台藩の江戸詰め藩医・工藤平助とも知り合いました。
そして、良沢が『玄沢を地元に帰すのは惜しい』と考えていることを知った平助は、一関藩主・田村村隆にかけあい、玄沢の遊学期間延長許可を取り付けてきてくれます。
「なんで、よその藩に口出しできるの?」
そんな感じもあるかもしれませんが、一関藩は仙台藩の親戚が治める支藩のようなものだったので、話が通りやすかったと思われます。
かくして多くの人に見込まれ、さらに学ぶ機会を得た玄沢は、その期待に応えて見識を深めていくのでした。
仙台藩医・江戸詰めとなり、江戸で私塾を開く
28歳には長崎への遊学を許可され、オランダ通詞(通訳)の家に下宿しながらオランダ語を磨きました。
そして再び江戸に帰ると、平助の推薦で彼と同じ仙台藩医・江戸詰めを命じられています。
玄沢は非常に感謝し、平助の家(工藤家)と親しく付き合うようになりました。
地元への愛着もあったでしょう。
が、学ぶとなったらやはり江戸がいいでしょうからね。
新しい治療や薬を使うにも、地方ではなかなか理解されにくかったでしょうし。
こうして江戸に定住することが決まった玄沢は、32歳のときに江戸で私塾を開き、後進の育成にも力を注ぎ始めます。
同時に、師の『解体新書』の改訂など、著作活動も積極的に行いました。
彼の著書は生涯で300冊にもなるといいます。どんだけ仕事してるねん。
それでいて長生きしてるあたりがスゴイんだな……。
玄沢が健康法に関する本を書いていたら、今頃ベストセラーになってたでしょう。
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