渡辺崋山/wikipediaより引用

江戸時代

蛮社の獄と渡辺崋山~ほぼ冤罪で自害させるには余りに惜しい人材だった

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モリソン号事件のときに思わず書こうとした「慎機論」

この頃から崋山は、尚歯会という蘭学者・儒学者の会合に顔を出すようになります。

尚歯会には高野長英川路聖謨(後々ハリスと交渉した人)などが参加しており、飢饉対策や海防についてなど、幅広い議論がかわされていました。

崋山は表立って口にすることは控えていたものの、内心では開国派だったので、この会の人々と馬が合ったようです。

また、崋山自身には蘭学の心得はなかったものの、蘭学者たちが崋山の考えに深く同意したことで、蘭学者のリーダーとみなされるようになっていきました。

そんな中、崋山45歳のとき、モリソン号事件が起きます。

「日本人の漂流民がたまたまアメリカの商船・モリソン号に救出されたものの、幕府が外国船打払令のために追い返してしまった」

という、まさに「お役所仕事」な事件です。

尚歯会のメンバーはこれに異を唱え、崋山も「慎機論」という本を書こうとしました。

しかし、田原藩の家老という立場上、他の学者たちのように真っ向から幕府へ反論を書くことができず、うやむやな文章になってしまいます。

崋山にも自覚があったようで、公にはせず草稿のままにしておいたのですが……これがよくありませんでした。

 

陪臣の分際で国政に口を出すとは何事か!

それから約半年後、後に悪名高い【蛮社の獄】が勃発。

崋山が未発表のまま置いておいた「慎機論」が「陪臣の分際で国政に口を出す不届き者の証拠」としてお咎めを受けてしまいます。

命までは取られませんでしたが、田原で謹慎生活を申し付けられました。

当然生活は苦しくなり、画家としての弟子である福田半香の勧めで、絵を売って生活の足しにしています。

図らずも、少年時代と同じような状況になったわけです。

池ノ原公園崋山幽居跡/photo by Aboshi wikipediaより引用

しかし、これが幕府にバレたという噂が立ち、「藩にこれ以上の迷惑はかけられない」と感じた崋山は、「不忠不孝渡辺登」と書き残して切腹してしまいました。

※「登」は崋山の武士としての通称

この噂自体が反崋山派の陰謀という説もありますが、どっちもあり得るのがなんとも……。

崋山は急に昇進して様々な取り組みを実行したために、陰で相当に恨まれていたらしく、死後もかなりの圧力がかけられました。

息子の小崋が許されて家名再興を果たしても、崋山の墓を作ることはずっと許されず、許可が出たのは戊辰戦争が始まった慶応四年=明治元年(1868年)春の話です。

遅すぎる上に、そのタイミングでやることかと。

時代にそぐわない固定観念は国益を損ずる上に、要らぬ死人を出すという例ですかね……。

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【参考】
国史大辞典
渡辺崋山/wikipedia
田原市博物館

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