江戸時代の寛永六年(1629年)11月8日、後水尾天皇が譲位しました。
この方は今上陛下まで続く代々の天皇の中でも、特に政治に積極的な方。
それがどうして自ら位を下りることになったのか?
どちらかといえばメガンテ的な展開があったのでした。
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後水尾天皇 譲位を考えるほど幕府に腹を立てる
徳川家康が幕府を作ったとき、何よりも手を焼いたのは豊臣家関連で、実は天皇家や朝廷についても同様です。
民衆の反感を招いてしまうといけないので、家康は一計を案じます。
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まずはお約束の「孫の嫁入り作戦」を計画しました。
このとき選ばれたのは徳川秀忠の末娘・徳川和子(まさこ or かずこ)。
後に東福門院と呼ばれる女性です。
しかし、まだ豊臣家との一件が片付いていない時期だったため、大坂の役が終わるまでは延び延びに。
この時点で、後水尾天皇が幕府に対して少しずつ好感度を下げていったことは想像に難くありません。
しかも天皇がお気に入りの侍女に手をつけたら「ウチの娘が輿入れするって決まってるのに、他の女に手をつけるとかありえないでしょ!!!」(超訳)とまで幕府に言われています。
まるで監視されているかのように感じ始めた後水尾天皇は、この時点で一度譲位を考えたほどでした。
平行して家康は
「政治とか俗っぽいことはこちらで引き受けますので、尊い方々は学問と文化に専念なさってくださいね^^」
というもっともらしいお願いという名の脅迫もしています。
これを明文化したのが“禁中並公家諸法度”でした。
教科書で覚えさせられるアレです。
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世襲にまでチャチャを入れられ切れ出す朝廷
一応建前としては間違っていませんし、幕府が朝廷から権力の委譲を受けているということは否定していないので、このときは公家の人々も「ぐぬぬ」とは思っても表立って反対することはしませんでした。
たぶん日記に「狸ムカつく」(※超訳イメージ)くらいのことを書いた人はいたかもしれません。
そんな中でも、学問については自由が利いたので、朝廷では天皇を始め勉学や法事に励んでいました。
それもマズくなったのが、紫衣事件と呼ばれる寛永四年(1627年)に起きた騒動です。
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”紫衣”とは、仏教で一番エライと認められたお坊さんに対して与えられるもの。
聖徳太子が冠位十二階での一番高い身分にも与えたように、紫そのものが高貴な色として扱われていました。
が、そのイメージとは裏腹に、本当に徳のある人かどうかではなく、お寺の格や年齢など、属っぽいことで紫衣が与えられるようになってしまっていたのです。
しかもいつの間にか一度に十人以上も「紫衣おk」の許可を出すようになっていたりと、だんだんありがたみが薄れてしまっていました。
幕府はこれに対し、禁中並公家諸法度の中で「それちょっとユル過ぎでしょ。ちゃんと人物を吟味してから紫衣をあげるようにしてくださいよ!」と定めます。
あれ? なんか幕府の方が真っ当?
しかし、朝廷からすれば、ポっと出の新政権に、先祖代々の慣習を否定されたようなものですから当然気に入りません。
それは後水尾天皇とて同じことでした。
幕府は「決まりは決まりだって言ってんだろ!」とこの年に紫衣を受けた僧から、強引に紫衣を取り上げてまわります。
あまつさえ、彼らを流罪にさえしました。
ここで離島でなく、陸続きの出羽(だいたい山形県)や陸奥(だいたい宮城県)に流したあたりが実に計画的というか何というか、いやらしい。都合に応じていつでも赦免できますからね。
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