平賀源内/wikipediaより引用

江戸時代

平賀源内の最期は獄死だったの? しかもエレキテルは彼の発明じゃない!?

江戸時代、自由すぎる生涯を送った人がいました。

安永八年(1780年)12月18日に獄死した平賀源内です。

エレキテルを発明した――として知られますが、これはちょっと語弊があって、正確には発明ではなく改良になります。

どういうことか?

彼の生涯とあわせて見てみましょう!

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

武田家に滅ぼされた後は奥州の伊達家へ

彼の名は日本史の教科書に必ず出てきますので、「エレキテルの人」と覚えている方が多いでしょうかね。

最近ですと、よしながふみ先生の漫画『大奥』(→amazon)でも数回に渡って登場していましたし、某菓子パンヒーローのキャラクターの元ネタになったこともあるので、昔の学者さんとしては比較的よく知られているほうではないでしょうか。

こう書くとホントはどんな人物なのかよくわからなくなってきますが、調べるとさらに「(´・ω・`)?」な印象を覚える人でもあります。

源内の実家は、身分は高くないものの戦国時代あたりから続く武士の家柄でした。

記録がはっきりしない部分もあるものの、元は信濃の豪族だったといわれています。

そして武田家に滅ぼされた後、奥州に移り住んで伊達家に仕え、政宗の長男・秀宗が四国・宇和島で独り立ちして藩を作ることになったとき、一緒にやってきたのだそうです。

その後何がどうなったのか、宇和島藩ではなく隣の高松藩へ仕える家になりました。

伊達秀宗(政宗の長男)の切なくてイイ話~斬られた重臣のことはさておき

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頭脳明晰で行動力バツグン まるでエリート電通マン

源内も順調に行けばそのまま高松藩士の一人として生涯を送っていたのでしょう。

しかし彼の場合は並外れた頭脳がその道に疑念を抱かせたようです。

13歳で本草学(現代で言う博物学)を学び始め、自然科学などさまざまな分野に興味を持った彼は、一度は藩に仕えながら「一生学問をやっていきたい」という気持ちが強くなります。

長崎へ遊学し、オランダ語など西洋の学問や文化に触れてからはもう半分以上武士でいるつもりがなかったのかもしれません。

妹に婿養子を取らせて後を継がせるというなかなか強引な手段で家の始末をつけ、自分は身一つで大阪・京都・江戸を渡り歩いて知識を深めていきます。

源内が記した物類品隲/wikipediaより引用

源内が記した物類品隲/wikipediaより引用

ここまでならただの物好きな学者というところです。

が、源内の場合ここからさらに実用的なことをいろいろやり始め、行動力もレベルアップしていきました。

もう一度長崎に行き、鉱山開発や精錬技術などを学んだ後、幕府の御用で伊豆に赴き、硝石や黄ミョウバンなどを採掘、実用化するための工夫を重ねたのです。

硝石は火薬や薬の原料、ミョウバンは染色剤や防水剤に使うものなのですが、当時これらの鉱物は国内であまり見つかっておらず、ほとんどを輸入でまかなっている状態でした。

そのため幕府は相当額のお金をこれらに費やしており、財政が圧迫されていたのをなんとかしようという狙いだったようです。

結果的にはさほど成果は上がらなかったのですが、「ないなら作ればいいじゃない」という発想の転換は現代の「石油を作る藻」ことオーランチオキトリウムや、バイオエタノールの開発などと通じるものがある……かもしれません。

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