新井白石

新井白石/wikipediaより引用

江戸時代

学者は政治に向いてない? 新井白石が幕府に呼ばれ吉宗に追い出されるまで

学者と政治家――。

明確に線が引かれているようで、その実、行ったり来たりしているフシギな職業。

実は今に始まったことではなく、歴史的必然なのかもしれません。

平安時代の貴族しかり。

戦国時代の僧侶(太原雪斎や安国寺恵瓊)しかり。

『机でのお勉強が、リアル社会でどんだけ使えるんだよ』

なんて鼻息荒くなる向きもありますが、やはり知識こそが政治や経済政策での武器にもなり得ましょう。

そんな学者の中でも、江戸時代、際立って名を馳せたのが新井白石です。

新井白石と言えば朱子学――小中学校の授業では、そんな風に習いますが、彼の生涯となると深く突っ込んだ経歴を見る機会は少なかったように思えます。

本日は、新井白石がどのようにして政治の表舞台に立ち、消えていったのか。

その足跡を追ってみましょう。

 

祖父の主君は関が原に破れ

新井白石の家は、戦国末期からなかなかの苦労をしています。

白石の祖父・勘解由(かげゆ)は、常陸下妻城主・多賀谷宣家(岩城宣隆)に仕えていました。

しかし、関ヶ原で主君が改易されて自身も浪人になると、そのまま慶長十四年(1609年)に死亡。

白石の父・新井正済(まさなり)は、9歳の時に勘解由と死別し、豪農に養われてたと伝わっています。

暫くの間、正済本人はそのことを把握してなかったそうで、13歳のときにそれを知ると江戸に出奔しました。

当時、流行っていた傾奇者(江戸時代版ヤンキーみたいな人)になっていたのですが、31歳のときに縁あって上総久留里城主・土屋利直に仕え始めます。

もちろん生活態度も改め、主君から信任を得て、目付職を務めるまでに出世。

明暦3年(1657年)に生まれた白石も、幼い頃から利直に気に入られていたようです(同年に江戸で日本史上最大の大火事が発生)。

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しかし、利直の跡を継いだ長男・土屋直樹が心身に支障を来したことを理由に、正済は勝手に出仕をやめてしまいました。

そのため、親子揃って藩を追い出された上、

【他藩へ仕えることも禁じられる】

という憂き目を見ることになります。

いわゆる【奉公構(ほうこうかまいorほうこうかまえ)】ですね。

戦国時代の水野勝成が、父親にこの奉公構に処され、豊臣秀吉加藤清正黒田長政など名だたる大名のもとを転々とした話が割と有名かもしれません。

※あるいは黒田長政に奉公構を出された後藤又兵衛なども

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商売より学問 そして大老・堀田正俊に仕える

奉公構で出されても、優秀な白石の名は社交界で密かに知られていたようです。

土屋家を追い出されると、複数の豪商から「商家の婿養子にならない?」という話を持ちかけられます。

生活のことを考えれば、この話を受けたほうが良かったでしょう。

しかし、白石はあくまで『学問に生きていきたい』と考えたようで、この手の誘いを全て断っています。

一方、そのころ土屋家では、久留里藩の領主という立場から引きずり降ろされ、一旗本に没落してしまいました。これにより土屋家からの奉公構も解除され、白石は改めて武家に仕えることができるようになります。

天和二年(1682年)、白石は、当時の大老・堀田正俊に仕えました。

これでやっと順風満帆……といいたいところですが、残念ながらそうはいきません。白石の責任ではなく、正俊が、親戚で若年寄の稲葉正休に殺されてしまったからです。

原因は未だ不明ながら、当時の価値観だと、

「武士のくせに不覚を取るとは情けない」

とも見られ、被害者側もそれなりの処罰を受けてしまいます。

このケースでは、堀田家に対して将軍・徳川綱吉やその他幕閣からの冷たい目が向けられました。

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白石としても、せっかく腰を落ち着けられそうだと希望を抱いていたところに水をさされて、さぞ落胆したことでしょう。

しかし、彼の学問への情熱は消えませんでした。

 

「木門の五先生」「木門十哲」の一人に

貞享三年(1686年)、白石は綱吉の侍講(儒学などの師)でもある木下順庵の門下に入り、初めて学問の師を得ることができました。

実はこのときまで師匠と呼べる人がいなかったのです。

ほぼ完全に独学で30歳になるまで勉強をしていたのですから、これはもう根っからの学者気質といえますね。

木下順庵/wikipediaより引用

白石は数年で、順庵の代表的な弟子たちをまとめた呼び名「木門の五先生」あるいは「木門十哲」の一人とみなされるまでになります。

もちろん、師匠にとっても自慢の弟子の一人。

順庵が以前加賀藩に仕えていたため、その縁で白石を紹介しようとしたこともあったようです。

しかし、兄弟弟子の岡島忠四郎が

「加賀に母がいるので、できれば私が行きたい。先生に私を取り次いでもらえないか」

と相談してきたため、白石は加賀行きを譲ったのだとか。エエ話やな……。

当時の加賀藩主は、80年間も藩主を務めたことで知られる四代・前田綱紀です。

学問や文学を尊ぶ方針を採っており、学者としては得難いタイプの主君でした。

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白石も少なからず加賀に興味があったのではないかと思われますが、もしもここで譲らなければ、彼の名は今ほど有名にはならなかったかもしれません。

というのも、この後にやはり順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊の侍講になったからです。

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