突然の転勤で職場が変わる――会社員の方にはままあることで、新しい環境に慣れるのが大変ですよね。
実は、江戸時代の大名たちも、たびたびそういう経験をすることがありました。単語としては「移封」の一言になってしまいますが、規模がデカいので『これは大変だっただろうなぁ』と思うようなこともしばしば。
本日はそれを見事に乗り切った、とある藩主のお話です。
慶長十四年(1609年)4月4日は、岡山藩初代藩主となる池田光政が誕生した日です。
どこの藩でも初代藩主は濃いエピソードを持っていることが多いですが、彼の場合、特に逸話に事欠きません。
なんせ2歳のときの話が残っているくらいなんです。
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池田光政の祖父は徳川四天王
それは、徳川家康に謁見したときのことです。
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光政が2歳のときだと、家康は既に67歳。豊臣家はまだ片付いていませんが、駿府城に隠居した後という時期でした。
このときの家康はかなりの上機嫌で、光政を膝元に呼んで撫でながら「早く立派になれよ」と声をかけ、さらには脇差を与えるというデレデレぶりだったといいます。
何人かの自分の息子たちにもその優しさを見せてあげればなぁ……(ボソッ)。
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まぁ、光政の母が、徳川四天王の一人・榊原康政の娘なのです。
家康にとっては我が孫のように可愛かったのかもしれません。
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脇差し抜いて「本物じゃ」
驚く……というかコーヒー噴いてしまいそうになるのが、このときの光政です。
なんと、与えられた脇差を抜いて
「本物じゃ!」
と言ったそうで。
いや、いくら何でも、2歳児が脇差をスムーズに抜いた、というのは若干無理があるような気がするのですが。
家康は、笑いながら脇差を鞘に収めてやり、光政が退出した後「あやつの眼つきはただ者ではない」と言ったそうです。おそらくは、この家康のコメントを強調するために脇差とこじつけられたのでしょう。
何はともあれ、こうして鮮烈な公的デビューをした光政。
7歳のときに父の姫路藩主・池田利隆が32歳の若さで亡くなったため、幼くして家督を継ぐことになります。
しかし、翌年「幼いからやっぱダメ」という無茶苦茶な理由で、鳥取藩(32万5000石)に移封されてしまいました。
一度「おk」って言ったのに、幕府ひどすぎ。

天球丸の巻石垣で知られる鳥取城
「四角い箱に味噌を入れ、杓子ですくうように」
こうして年齢一ケタで国替えという困難に見舞われました光政。
家康の見込み通り、彼はただ者ではありませんでした。
十代半ば頃に論語を読んで、民衆への教育の大切さを知ってから、学問を中心として国政を行っていこうと決意します。
また、書物からだけではなく、京都所司代・板倉勝重にアドバイスを求めたり、家臣に「私に至らぬところがあれば遠慮なく申せ」と諫言を推奨したり、人から学ぶことも強く意識しています。
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よほど頭の良い人でなければそういった考えは出てきませんし、実行できないですよね。
ちなみに、勝重からのアドバイスは「四角い箱に味噌を入れて、杓子ですくうようにすれば良い」というものでした。
光政が「隅に残った部分はどうすればいいのですか」と質問したところ、勝重は「貴公の藩のように、大きな国で厳重に政をしようとしても、人心がついてきません。寛容な心をお忘れなく」と重ねて助言したとか。
ナルホド。わかりやすい例えで。
光政も、生涯これを心がけていたといいます。
統治が落ち着いたかと思ったらお引越し
実際、統治は随分苦労したようです。
領地が減っても家臣の召し放ち(辞職)を行わなかったことや、鳥取周辺が歴史的に統一されておらず民心掌握に時間がかかったこと、さらには、城下町の拡大に努めたことが原因ですね。
光政は藩を豊かにするため粉骨砕身働きます。
しかし!
やっと落ち着いてきたところで、またしても転封という……。
叔父の岡山藩主・池田忠雄が亡くなり、その嫡男である池田光仲が3歳という幼さだったので、領地を交換せよというお達しが出たのです。

そして岡山城へ
岡山が31万5000石、鳥取が32万5000石なんですけどね……。
山陽道の要衝である岡山というのが加味されたにしても、やはり幕府の基準がよくわかりません。
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