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『機巧図彙』に記された内部構造
また、寛政九年(1796年)に出版された「機巧図彙(からくりずい)」という本には、和時計の内部構造が事細かに書かれています。

『機巧図彙』に掲載の和時計/photo by I, PHGCOM wikipediaより引用
もちろん精密機械ですから、和時計は超高級品であり、大名や豪商などの富裕層しか持てませんでした。
そのため和時計のことを「大名時計」ともいいます。
高級品らしくかなり細かい装飾が施されたものも多々ありました。
「この時計めっちゃ構造簡単www すぐ作れるしwww」
イサーク・ティチングという江戸時代中期のオランダ商館長が「和時計ってすげえ! おみやげに買いたい!」と思ったこともあったそうです。
ただ、あまりに高価なため諦めたといいますから、相当な価格だったのでしょう。
当時の和時計がどんだけハイテクだったかというと、自動的に朝晩の時報を鳴らす仕組みのものもあったようで、祖先ながら恐ろしいですね。
しかし、明治時代に太陽暦や定時法が導入されたとき、不定時法と和時計はその役割を終えました。
同時にアメリカから定時法の時計もたくさん入ってきたのですが、その際和時計を造っていた職人たちは
『なんだよこの時計、めっちゃ構造簡単www こんなんすぐ作れるしwwwwww』(※イメージです)
と思ったとか。
そのおかげなのか、明治三十五年(1902年)には国内需要どころかアジア市場に輸出できるほどの時計を生産できていたといいます。
凄いな……。
まぁ、何というか、今も昔も日本人って得意なことが変わらない気がしますね。
和時計の現物は上野の国立科学博物館や、谷中の大名時計博物館で見ることができます。
お近くにお出かけの際は眺めてみてはいかがでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
日本大百科全書
時の記念日/wikipedia
和時計/wikipedia
機巧図彙/wikipedia