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【大槻玄沢】
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オランダ正月でパーティー開かなあかんねん
さて、上記のように、玄沢は非常に人付き合いがうまかったわけですが、その証左になりそうな点がもうひとつあります。
彼は「オランダ正月」という行事を行っているのです。
「紅毛正月」や「新元会」とも呼ばれたこの行事、もちろんオランダ人に関係があります。
玄沢は長崎に遊学していた際、「暦が違うため、西洋の新年は日本の新年とは日付がズレる」「長崎では、西洋の新年に宴を開いている」ということを知りました。
そして37歳のとき、江戸へのあいさつにやってきたオランダ商館長と共に、江戸でもこの宴を開こうと思いつきます。
お師匠様の玄白・良沢も招待。
そのお仲間の蘭学者や西洋好きの面々も集まって、賑やかなパーティーになった模様です。
パーティーは、玄沢の死(文政10年・1811年)後に息子の大槻磐里(ばんり)が引き継ぎ、磐里が亡くなる天保八年(1837年)まで毎年実施されました。
ちなみに、磐里の弟・大槻磐渓がこのオランダ正月を復活させるのですが、少し紆余曲折がありまして。
磐渓は「奥羽越列藩同盟の結成に関わった」として、戊辰戦争の戦犯にされてしまいます。
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ただ、老体であることからすぐに罪を許され、ほとぼりが冷めた明治六年(1873年)にオランダ正月を再開させたのです。
磐渓自身が開国派だったということもあるでしょうが、トーチャンの偉業を受け継ぎたいと思ったのかもしれませんね。
そんな大槻一族については以下の三名が「大槻三賢人」として一ノ関駅前に銅像がたてられています。
大槻玄沢(親)
│
大槻磐渓(子)
│
大槻文彦(孫)
中尊寺でお馴染みの平泉からかなり近いので、現地を訪れる機会がありましたら、ご一緒に見学されるとよいかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
大槻玄沢/wikipedia
オランダ正月/wikipedia