宝永地震(南海トラフ巨大地震)の震度分布図/wikipediaより引用

江戸時代

日本史上最大の揺れだったM8.6宝永地震 49日後には富士山も噴火

宝永四年(1707年)10月4日は、日本史上最大の規模だった宝永地震が起きた日です。

この年の干支が亥だったので「亥の大変(いのたいへん)」と呼ばれることもあるようです。

いわゆる「南海トラフ巨大地震」の例の一つであり、M8.6と目される超大規模な揺れでしたので、東日本大震災が起きるまでは過去最大と考えられているほどです。

あまりにも被害が大きい上、詳述すると気分が悪くなってしまわれる方も少なくないと思われますので、いくつかのポイントを抜粋していきますね。

まずは、この地震が「いつ・どこで・どのくらい揺れたか」という点から見て参りましょう。

 


九州から青森~西はなんと中国まで

宝永地震で最初の揺れが発生したのは、同日14時ごろだったといわれています。

震源が沖合いであり、地震が起きた範囲が非常に広いため、場所によっては「夕食時に揺れた」などの記述も。

と、これはさすがに余震の可能性が高そうですね。

大規模な揺れの場合、余震も凄まじいことになるのは、皆様、東日本大震災でご存知でしょう。

揺れの大きさについては現代基準での推測になりますが、震度6以上が駿河以西~九州北部、震度4以上がその外側にあたる甲信越・江戸・九州及び京都といわれています。

また、八戸でも有感地震があったとのことなので、東北もほとんどの地域で揺れたでしょう。

これだけいろいろな場所が揺れていますので、被害もさまざまな面に及びました。

・城が傾く(物理)

・お堀の水があふれる

・山崩れで堰止め湖ができ、その後決壊

・地面の隆起または沈下

・液状化現象

・家屋、寺社の倒壊

同じような記録が、なんと中国でもあります。中国地方ではなく、お隣・チャイナの中国です。

しかも「この頃日本でこんな地震があった」という他人事ではなく、「この頃地震があって津波が来た」という記述ですから恐ろしい。

震源が太平洋側なのに、列島を突き抜けて揺れと津波が起きているって???

宝永地震で最大の被害をもたらしたのは、ほかならぬ津波でした。

 


「町だったところが海になった」

東日本大震災でも記憶に新しい津波の被害――いったい宝永地震ではどれほどのものだったのか?

・大坂では津波で河口に繋がれていた船が流され橋を破壊、被害者が更に増えた

・集落壊滅を意味する「亡所」「草木一本も残らなかった」「町だったところが海になった」などの記述が多々

・田畑や塩田が津波で壊滅

想像するだけで背筋が凍りますね。

その中で二つだけ前向きになれそうな話がありますので、簡単にご紹介しておきましょう。

特に被害が大きかった地域の一つ・土佐で「須崎八幡宮の神輿」が流出してしまいました。

しかし、どこをどう流れたものか、下田(※神奈川県)でその神輿が拾われ、新八幡宮として祭られます。

すると、その後下田周辺では豊漁続きとなりました。

須崎の人々がこれを知って返還を要望すると、下田の人々はきちんと返した……というオチが実に小気味良い話です。

また、佐伯藩(現・大分県)では昼夜問わず七回も津波が来たため、町人らに対して藩主が「遠慮しなくていいから」と城へ避難させたそうです。

この頃の藩主は毛利高慶という人です。

彼は仏教への信仰が篤かったそうなので、それが城中の人々にも伝わったものでしょうか。

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