太夫

江戸時代

江戸時代の大名豪商が憧れた「太夫」って?寛永三名妓に見る過酷な生涯

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高尾太夫

こちらは上記の二人とは違い、江戸の吉原で高名だった娼妓の世襲名です。

何代目まで続いたのかは定かではなく、少ないものだと6代説、多いものだと11代説まであります。ちょっと幅広すぎやしませんかね。

歌舞伎のように確実に代々受け継がれていくものではなく、「この名にふさわしい者が現れたら襲名させる」というスタイルだったので、「あれ、この子は何代目だっけ?」みたいな感じだったのでしょうか。

一方で、「誰それに身請けされました」という話が多いのも、代々の高尾太夫の特徴です。

例えば、二代目の高尾太夫は仙台藩の三代目・伊達綱宗に身請けされたといわれています。

「仲睦まじく暮らしました」という説と、「川遊びの際に綱宗の機嫌を損ねて惨殺された」という酷すぎる説の二つがあるので、幸せだったかどうかはわかりかねますが。いくらなんでも落差がありすぎ……。

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また、八代将軍・徳川吉宗の頃にいたとされる六代目・七代目の高尾太夫は、いずれも大名に身請けされたといわれています。

そこまではいいものの、身請けした大名が「このご時世に大枚はたいて女を買うとはいいご身分だな」(※イメージです)と吉宗に怒られ、僻地に移封されたとか、隠居させられたというエピソードを持ちます。

あまりにも話が似すぎているので、「同じ人物に対する別の説なのでは?」ともいわれています。

襲名という制度は誇り高いものでもありますが、こういうときにはややこしいですね。

 

明治の元勲たちは元妓女を娶るケースも多かった

夕霧太夫や吉野太夫も、なまじ皆の憧れだけに憶測が憶測を呼び、挙句の果てに芝居に仕立て上げられ、いつしか作り話のほうがメジャーになり、そっちが真実だと思われるようになってしまうのですから、世知辛いもの。

中には、太夫を情け深く誠実な女性と描く話もありますが、数としては多くありません。

彼女たちは、女の地獄と称される妓楼の中で、美貌だけでなく誇りと芸によって確たる自我を持っていたからこそ、最高位である太夫になったのでしょうね。

明治の元勲の妻に元妓女というケースが多いことからしても、しっかりとした考えを持っていた女性は珍しくなかったはずです。

太夫にまでなれなかった妓女たちの多くが不幸な最期を遂げたといわれていますから、せめて太夫になった人だけでも、年期明けや身請けの後は穏やかに過ごせていたことを願うばかり……。

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長月 七紀・記

【参考】
国士大辞典
夕霧太夫/Wikipedia
吉野太夫/Wikipedia
高尾太夫/Wikipedia

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