ナゼそこまで高度な技術が昔にあったのか???
「明らかにその時代に見合わないのでは?」というテクノロジー製品をオーパーツといいます。
最近はインチキ説が強いものも出てきましたが、未だに謎が解けていないものもありますよね。
本日はその一つに入れたくなる江戸時代頃の超技術(?)のお話です。
6月10日は「時の記念日」。
天智天皇十年(671年)4月25日に初めて時報の金が鳴らされた日が、新暦に直すとこの日になることからきています。
本日は日本独自の「和時計」について振り返ってみましょう。
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夏は昼の一刻が長く 冬は夜の一刻が長く
戦国・江戸時代に西洋の時計が入ってきたとき、各大名の頭の中は「???」が浮かんだと思われます。
時間の単位が西洋と日本では大きく異なっていたからです。
当時、日本は季節ごとの日の長さによって、時間の長さを変えていました。
いわゆる「不定時法」というもので以下の様な考え方となります。
日の出の30分前を「明け六つ」日没の30分後を「暮れ六つ」として、明け六つ~暮れ六つ(昼間)とその逆(夜間)をそれぞれ六等分したものを「一刻(いっとき)」と呼んでいました。
昼も夜も「六つ時」から五つ・四つ・九つ・八つ・七つと進み、また「六つ時」に戻るという数え方をします。
明け六つから数えて八つ時がいわゆる「お八つ」=「おやつ」の時間です。
また、一刻それぞれに十二支を当てはめて「辰刻」や「午刻」とも呼びました。
怪談で「草木も眠る丑”三つ”時」という表現がありますが、この”三つ”は一刻をさらに四等分した、その3つめという意味があります。
現在、使われている定時法では、お八つ=だいだい14時~15時、丑三つ時=2時過ぎになりますね。
ややこしい話ですが、
「不定時法では、夏は昼の一刻が長くなり、冬は夜の一刻が長くなる」
ということがわかればいいかと。
現代で不定時法を使うのは、おやつや丑三つ時などの慣用表現くらいでしょう。
ちなみに「10時のおやつ」は一度にたくさん食べられない小さな子供のために、間食として考えられた可能性が大だそうで。
いつ頃からの習慣なのかはハッキリしませんが、少なくとも戦前には当たり前の習慣になっていたようです。
現代の大人がやるとメタボへ一直線になる恐れがありますので、コーヒーブレイクくらいがよさそうですね。昼食が食べられなくなってしまいそうですし。
ともかく、西洋の時計をそのまま日本で使うのは難しい状況でした。
120年で魔改造に成功した日本の時計職人たち
しかし、それが日本の職人魂に火をつけたのかもしれません。
いつしか「西洋の時計が使えないなら、日本に合った時計を新しく作ればいいじゃない^^」という考えが主流になったようです。
例によって詳しい経緯は歴史の流れに埋もれてしまいましたが、鉄砲伝来から十数年で種子島の量産体制が確立したような状況ですから、同程度の速度で不定時法時計=和時計も開発されたとみられています。
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制作年度がハッキリしている最古の和時計は、延宝元年(1673年)のものです。
西洋時計が入ってきた確たる記録は、天文二十年(1551年)にフランシスコ・ザビエルが大内義隆に献上したときのことですので、120年程で魔改造したことになります。
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祖父・父・子とかで開発してたらプロジェクトXものですね。
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