和菓子メーカーの丸京製菓が提唱したもので、
「4と4で4合わせ=幸せ」
「どら焼きは同じ生地であんこを包んでいる」→「似てるじゃないか!」
という理由からだとか。
直接関係ありませんが、4月4日は「あんぱんの日」でもあります。この日にあんこを仕込んだり食べたりすると、何か縁起がいいんですかね。
ただの偶然でしょうけれども。
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源義経が奥州へ逃れるとき立ち寄った民家で
さて、今日手頃なおやつだったり、ドラえもんの好物として有名などら焼き。その起源についてはハッキリしていません。
まぁ、だいたいの料理やお菓子は「いつの間にか作られるようになりました」というものが多いですよね。
古いものでは、義経と弁慶に絡んだ説があります。
「義経一行が奥州へ逃れる道中に、弁慶がとある民家で怪我の手当をしてもらったとき、お礼に熱した銅鑼で生地を焼き、あんこを包んだ菓子を作ってあげた」
平安時代には甘い味付けをするとき、白い砂糖よりも蜂蜜のほうが一般的でしたから、「看護のお礼にお菓子を作る」というのはありえなくはない話です。
砂糖は貴重すぎて薬扱いでしたし、平安時代には養蜂が始まっていたそうですからね。
「逃亡中にお菓子を作る余裕があるのか」
「貴重品の蜂蜜を、逃亡中にどうやって手に入れたのか」
といった疑問も拭えませんが。
あるいは、弁慶がお世話になったのはただの民家ではなく土豪か何かで、材料が全てそろっていたんでしょうか。
当時の交通事情や、義経一行が少人数だったことを考えると、時間については問題なかったのかもしれません。実際、追いつかれることもなく奥州には着いていますしね。
同じ弁慶がらみの説で、少し違った話もあります。
「弁慶が怪我をして、民家で世話になった」点は同じなのですが、「療養させてもらったお礼に弁慶が置いていった銅鑼で、生地を焼いてお菓子を作った」というものです。
これはこれで、「お礼にもらったものを本来の用途以外で使うんかい?(´・ω・`)」とツッコミたくなりますけれども。
現在でも関西方面では「三笠」と呼ぶことがある
また、江戸時代の「どら焼き」は現在と全く違う形のものだったといわれています。
いわく、「一枚だけ皮を使ってあんこを包み、四角く折りたたんだもの」だったそうで、側面はあんこが見えていたそうですから、現在のきんつばに近いものではないかと推測されています。
きんつばも、江戸時代に京都で生まれたものなのですけれども……一部の地域で混同されたとかでしょうか。
”京都で「きんつば」と呼んだお菓子を、江戸では「どら焼き」と呼んだ”という可能性もありそうですね。
現在でも、関西のほうではどら焼きのことを「三笠」と呼ぶことがあるそうで。
これはカステラで有名な文明堂が名付けたものです。
奈良にある神聖な山のひとつ、三笠山とどら焼きの形が似ているからだとか。
会社の記念品でどら焼きもらった!
三笠山だせぇ〜
なんだよ太っ腹じゃんかよぉ〜 pic.twitter.com/h5YppQQeoP— オカダ (@csl_74205) April 1, 2019
この山は旧海軍の戦艦・三笠の名前の由来でもあります。
旧軍の軍艦の中で現存している数少ない船で、今は神奈川県横須賀市で記念艦として保存されていることで有名です。
ついでに、近年話題になった某・巨人を駆逐するマンガのヒロインの名も戦艦三笠からなので、「どら焼きと某ヒロインの名が同じ由来を持つ」ということになります。なかなか愉快ですね。
まあなんにせよ、どら焼きが(最長で)およそ800年もの間、日本人に愛されてきたことは間違いないでしょう。
最近は「生どら焼き」という洋菓子に近いものや、抹茶生地のどら焼きなども出てきました。
今後も身近なお菓子として一定の地位にあり続けるのでしょうね。
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長月 七紀・記
【参考】
どら焼き/wikipedia
菓子庵・丸京(→link)