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10月31日が「日本茶の日」の理由――栄西が中国から茶を持ち帰ったから

新緑薫る5月。
お茶の季節と言えば春から初夏に向けて――というイメージがありますが、実は「日本茶の日」は10月31日とされています。

由来は建久二年(1191年)の10月31日にあたる日に、日本茶のもとになるものが伝わったからです。

なぜ「あたる日」かというと、旧暦には10月31日がないので便宜的に……ということですね。

中国(当時は宋)から帰ってきたお坊さん・栄西です。

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それ以前にもお茶と称されるものは伝わっていたのですが、いったん焦がす寸前まで炙ったりしていたので、苦過ぎてとても嗜好品と呼べるものではありません。

苗木などはそのとき伝わっていたので、茶の栽培自体は行われていたようです。

当時は中国風の習慣とされていたので、遣唐使の廃止と同時に喫茶文化は廃れてしまいます。

しかし、栄西が違う形のお茶を持ち帰ったことで、再び飲み物として注目されることになったのです。

 

伝来当時の抹茶は苦さがハンパなく眠気覚まし

栄西は宋のお寺で飲まれていたお茶の淹れ方も伝えました。

これが現在飲まれている抹茶のもとになったのです。

当初は苦さがハンパないものだったそうで、眠気覚ましに使っていたという記録もあります。どんだけ?

現代ならコーヒーなどもっと苦い飲み物がありますが、当時は薬くらいしかないでしょうからね。

その苦さのため、やはり飲み物としてよりも薬と受け取られている面が大きかったようです。

栄西は『喫茶養生記(きっさようじょうき)』という本にお茶の効能をまとめています。

上巻がお茶、下巻が桑について書かれているため、茶桑経ちゃそうきょうとも呼ばれています。

この本はときの鎌倉三代将軍・源実朝に献上され、二日酔いで苦しんでいたところお茶を飲んで治療したという記録も残っています。

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当時のお酒は、割り水などで今よりずっとアルコール度数が低かったでしょうから、大量に飲んだか、それともよっぽどお酒に弱かったのか……。

ちょっとイメージ変わりますね。

 

江戸期の大名も楽しみにしていた

その後は茶道具の伝来、茶の湯の大成や茶の大量生産などを経て、まずは戦国武将や江戸期の大名で好まれました。

肩肘張ることなく話のできる――要はリラックスできる場であったんですね。

江戸期の上流武家は窮屈な生活を強いられていたため、かなり多くの大名が茶を楽しみとしていたと言います。

また、武士・貴族階級だけでなく庶民にも広く飲まれることになりました。

江戸時代の庶民は茶の湯よりも気楽に楽しめる飲み方を好んだため、現在の一般家庭で飲まれている方法に近かったようです。

現代の茶道は明治時代に「もう一度きちんとやろうぜ!」という方針の元、再興させたものです。

このとき女子の教養とされ、茶道=華やかな着物という図ができたようです。

今茶道にお金がかかるのは、明治政府のせいなんですねえ。

なお、戦国期から江戸にかけての茶道については、以下の記事に少し詳しくあります。

よろしければ併せてご覧ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『栄西 喫茶養生記 (講談社学術文庫)』(→amazon

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