治承五年(1181年)3月10日は、源行家による源平合戦の一つ「墨俣川の戦い」があったとされる日です。
墨俣川とは現在の長良川(岐阜県)のこと。
後には斎藤道三が息子・斎藤義龍に斃された”長良川の戦い”の舞台にもなっておりますね。
時代が下るにつれて川の流れも変わっていますので、まったく同じ場所で戦ったわけではないとしても面白いものです。
日付については他の説もありますが、ここでは10日の出来事として扱わせていただきますね。
頼朝と仲の悪い叔父さん行家が勝手に…
墨俣川の戦いが起きた時期は、富士川の戦いの後のこと。
平家が京都へ逃げ帰り、八つ当たりで奈良を焼いた後です。
この戦で特筆すべきは、「治承・寿永の乱」とも呼ばれる源平の戦いの中で、珍しく平家方が勝ったということでしょう。
1181年、平家方は奈良を焼いた後、平清盛の五男・平重衡(しげひら)を総大将として軍を整えて再び東へ向かいました。
これに対し、源氏方は源行家(ゆきいえ・頼朝たちの叔父さん)を大将として墨俣川で待ち受けます。
川沿いを戦場に選んだ時点でフラグ乱立状態ですが、ついでに言えば源氏方のほうが兵数的にも圧倒的に不利でした(鵜呑みにはできませんが平氏3万に対し、源氏6千との表記も)。
情報戦の時代じゃない。
とはいえ、ちょっとお粗末な点が目立ちますね。
これは源氏の内部事情も絡んでいます。
というのも、行家は頼朝と折り合いが悪く、半ば以上独断専行していたからです。
自ら「天の時・地の利・人の和」という戦のセオリーと真逆の行動をしていたわけですね。
こんな状態で勝てるワケがないでしょう。
川を渡ったときに衣服が濡れて夜襲バレバレ
ついでに源義円(みなもとのぎえん)という源義経のすぐ上のお兄さんが「そうだ、夜襲をしよう!」とこれまた一人で勝手に動いてしまうから大変。
義円は川を渡って敵陣に紛れ込んで夜襲を企てましたが、この計画はあっさりバレてしまいました。
現代のようにそこかしこに大勢が渡れるような橋はそうそうない時代ですから、川を渡るとなれば浅いところを歩くしかない。
川を歩いて渡れば、当然服が濡れます。
それを平氏方に見られてしまったのです。
「俺らの味方がこんな夜更けに川を渡ってくるわけがない」
ということで、夜襲を始めるどころか返り討ちにあってしまうのです。実に残念ですね(´・ω・`)
同じ源平の戦で奇襲の成功例というとやはり一ノ谷の戦いや屋島の戦いですけれども、あれは「こんなところや天候で来るわけがない」という敵の思い込みを逆手に取ったもの。
逆に言えば、そういう大前提がなければ奇襲というものは成功しないわけですね。
ですから、墨俣川の戦いでも川を馬で大きく迂回し、もっと上流のほうで渡河してから一気に平家軍へ襲い掛かるなど、何かもう一工夫あれば成功したかもしれません。

岐阜県大垣市墨俣にある合戦碑/Wikipediaより引用
行家「頼朝がダメなら義仲に乗り換える( ー`дー´)キリッ 」
その後、源氏軍は熱田(現・名古屋市)まで退いて立て篭もったところも突破され、さらに東の矢作川(現・静岡県)まで撤退します。
現在の道路にして熱田から約40km、墨俣からは約83kmほど逃げたことになります。
フルマラソン二回分より少し短いくらいですね。
いっそ天晴れな逃げっぷりと称えましょうか。
ここまで来るなら平家方はもっと追いこんでも良さそうなものですが、「源氏に援軍来るってよ」というウワサを聞いたため、重衡は軍を返しました。あれ? なんか平家のほうが良い軍に見えるぞ…。
ちなみにこの後、行家は「頼朝とうまく行かないなら義仲だ!」といって木曽義仲に近付いた割に、宮中で後白河法皇に拝謁する際は前後を争ったりしており、残念な面が目立ちすぎております。
頼朝も「一応叔父上だけどアレはちょっと」とか思ってたんじゃないでしょうかね。ドンマイ。
というか、頼朝側から見ると肉親が困ったちゃんだらけなんですよね。
末弟(源義経)は、一応功績はあるもののルール違反の自覚なし。
従兄弟(源義仲)は暴れん坊。
叔父(源行家)はネジが抜けてる上に、父(源義朝)は既に他界済みとくれば、肉親を特別扱いしたくなくなるのも無理はありません。
唯一の例外だった地味なほうの弟・源範頼も、北条政子に疑われて運の尽きになってしまいました。
これじゃ嫁の実家をアテにしたくなる気持ちもわかろうというものです。まさか北条家が息子を殺すとも思ってなかったでしょうしね。
源氏による鎌倉幕府が長持ちしなかったのは、最初の武家政権だからという他に、この辺の事情も大きいのかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
墨俣川の戦い/Wikipedia