木曽義仲/wikipediaより引用

源平

源義仲(木曽義仲)31年の生涯マトメ!後白河と頼朝の政治力に翻弄された挙兵劇

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やっぱり頼朝って有能な政治家なのね

そんなこんなで京に入ってからの義仲評価はダダ下がり。

「京都の治安回復という仕事もできないばかりか、身の程をわきまえず皇位継承に口を出すサイテーなヤツ」とレッテル貼られてしまいます。

こうして義仲が浴びた逆風を、巧みに利用したのが、政治感覚に優れた頼朝
まずは寿永二年十月宣旨(1183年10月)で、東海・東山両道の沙汰権(警察権)を認めてもらいます。

頼朝は更に、母方のツテなどを使って京都の公家や僧侶を通じて朝廷との連絡を取ったり、御家人同士の紛争解決などに協力させたりして、上洛せぬまま自身の影響力や存在感を強めます。
同時に、弟である範頼と義経に、兵を率いて上洛するよう命じました。

この辺が、現代においても「頼朝は武士というより政治家」と評価される由縁ですね。

当時は電話もメールもありませんから、京と鎌倉では情報にタイムラグが生まれます。
頼朝はそこを強く意識し、
「これをやるなら、あれもやらなければならない」
という計算を常に働かせていたのでしょう。

なんだか、頼朝の凄さは、義仲から見たほうが際立つ――というフシギな光景になりますね。

近年では足利直義説が唱えられている源頼朝肖像画/wikipediaより引用

 

「生涯恨みます」

そのころ義仲は、後白河法皇からも直々にお叱りを受けていました。

さすがに立場の悪さを悟った義仲は、挽回すべく、すぐさま平家追討に出陣します。
が、同年閏10月1日、水島の戦いで惨敗し、股肱の臣を失ってしまいます。

そして後白河法皇と頼朝の共闘体制を知り、法皇を「生涯恨みます」(意訳)となじり始めます。
後白河法皇からすれば「だからどうした! さっさと働いて結果を出せ!」って感じだったでしょう。

また、後白河法皇は義仲に対し
「直ちに平家追討に行け! 行かずに頼朝軍と戦うならば謀反扱いにする」
と、事実上の最後通牒を送っていました。

「今謝れば許してやんよ」というわけです。

義仲も「法皇様に背くつもりはないが、頼朝軍が来れば戦わざるをえない。しかし、京に頼朝軍が入ってこないのなら平家追討に向かいます」と返事をしました。

この返答自体は妥当なものといえなくもありません。
が、完全に後白河法皇に服従する意思も見えない……と判断されたようです。

数日後には後白河法皇の元に後鳥羽天皇などの皇族や、天台座主が集まり、ここで義仲討伐が確定したと思われます。

 

後白河法皇のところへ攻め込み、ますます泥沼へ

関係が改善しないまま、義仲は西国へ落ち延びる平家を追って再び出陣します。

当然ながら京都を留守にするわけで、これを機に、院の近臣・平知康らが院御所・法住寺殿で反義仲の兵を挙げました。
後白河法皇自身も方々へ呼びかけ、延暦寺などの僧兵や、飢饉などの理由で京に入ってきていた流民までかき集めたといいますから、当時の京の「義仲ブッコロ!!」な空気がまざまざと出ておりますね。

なにせ、後白河法皇方には、一時期義仲に従っていた摂津源氏や美濃源氏もおりまして。

摂津源氏は妖怪退治で有名な源頼光などの家で、美濃源氏は摂津源氏から枝分かれし、戦国大名の土岐氏などの祖先となった家です。
両家ともに京に近い地域を根拠地としていたこともあり、北面の武士を務めたり、保元の乱平治の乱にも関わったりしていました。

義仲が彼らのそういうところに目をつけて、京の世情や、あるべき振る舞い方などを学んでいれば良かったのかもしれません。

なお、平知康について、
「平家ですよね? 彼らは全員、京都から出ていったんじゃないの?」
という点も気になるところですが、知康がどの系統なのかよくわかりませんでした(´・ω・`)

北面の武士を務めていたことと、鼓の名手だったことはわかるのですが……。
もしご存じの方がいらっしゃいましたら、コメント等でご教示いただければ幸いです。

しかし、知康の挙兵は、義仲がすぐに帰ってきてしまったために、失敗に終わります。
義仲は排除されかけたことに対して激怒し、法住寺殿を焼き討ち、後白河法皇を捕らえ、京都五条にあった近衛基通邸に幽閉しました。

これが「法住寺合戦」と呼ばれている戦いです。

 

政治力もないのに傀儡政権を立て

法住寺合戦を経て、義仲はヤケッパチというか、誇大妄想というか、色々と痛い行動に出ます。

摂政や内大臣などの要職や、院の近臣数十名を勝手にクビにして急ごしらえの傀儡政権を作り、自分は「院厩別当」となったのです。

「厩」とは、もちろん馬を飼う小屋のことです。
上皇や法皇の御所には、外出時に使う馬の世話係がおり、そのトップのことを「院厩別当」といいました。

つまり、義仲は後白河法皇の外出手段を奪って、「もうアンタの好き勝手になんかさせないから!」と宣言したわけです。

なんぜ義仲は、この法住寺合戦で、後白河法皇の第四皇子・円恵法親王や、当時の天台座主(延暦寺のトップで天台宗の代表者)・明雲も討ってしまっています。

そのうえ政治的横暴まで働いてしまえば、源平のみならず公家や延暦寺も「義仲とかマジ呆れますって……」(超訳)とドン引きされて仕方ありません。

なんというんですかね。
皇族や聖職者への乱暴は、何がどうあっても避けなければならないところなんですよね。
それがまるでセルフコントロールできない。

かくして義仲の命運は尽きかけてしまいます。
京には、頼朝が放った範頼・義経軍が迫っていたのでした。

 

頼朝と戦うため平家と和平というアベコベ

コトここに至り、さらに妙な判断をしてしまうのが義仲。

「頼朝と決戦するために平家と和平する」というアベコベな方針を採ってしまいます。
一時は、後白河法皇を捕らえて北陸に行こうとも考えていたようで。

本当に何をしたいのか、サッパリ意味がわかりません。
命が惜しけりゃとりあえず頭を丸めとけ……というのがセオリーですが、既に仏僧まで手にかけてしまっていますので、それも厳しかったでしょう。

右往左往しているうちに、ついに範頼・義経軍がやってきます。

すっかり人望を失っていた義仲に味方する兵は少なく、宇治川の戦いで義仲軍は惨敗。
義仲は数名の武士と落ち延び、間もなく近江国粟津(現・滋賀県大津市)で討ち死にしていました。

享年31。
余談ですが、義仲と義経はいずれも同じ年齢(数えで31歳)で頼朝の差し金により討たれています。
単なる偶然でしょうけど。

他にも「ごく身近な人間からは信頼されていたのに、エライ人や世間の目をあまり気にしていない」ところも似ていますね。
義経のほうが義仲よりマシですが、結局は、政治力が足りないというか、生粋の武人というか。

 

そして誰もいなくなった源氏の方たち

源氏の主だった面々で、源平の戦い(の間にやってた内ゲバ)から生き残ったのは頼朝と範頼です。

しかし、その範頼もちょっとした失言で頼朝に疑われてしまい、不審死を遂げることになります。

最後に残った頼朝も「正式な歴史書に一切記述がない」という怪しさバリバリな最期で、その子供である頼家・実朝もまた、鎌倉幕府成立以降に非業の死を遂げます。

「そして誰もいなくなった」感ェ……。

鎌倉幕府を担っていくのが、広義では平氏(平家=伊勢平氏の大本である桓武平氏高望流)に入る北条氏です。

もっと世代が近ければ、
「実は北条氏は平家の味方で、源氏を途絶えさせるために一芝居打ったんだよ!」
「な、なんだってー!?」
なんて邪推もできますが、伊勢平氏と北条氏のご先祖様が枝分かれしたのは、源平の戦いから200年近く前のこと。

つまり、ほぼ偶然に事が進んだ結果なわけで……何とも皮肉ですね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
源義仲/Wikipedia

 



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