後三年合戦絵詞/Wikipediaより引用

源平

まるで戦国【後三年の役】が絶対わかる!源義家が偉大なる棟梁となるまで

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寛治元年(1087年)11月14日は【後三年の役】が終結したとされる日です。

日本史では『ややこしい……』として、敬遠されがちな項目でもありますね。

しかし、お待ちください。

この戦い、まるで戦国時代のプロトタイプを見ているようで、非常に興味深いものがあります。

たしかに登場人物を丸暗記するのはシンドイですが、その前に勃発していた【前九年の役(1051~1062年)】のドンパチから見ると因果関係が興味深く、武田信玄のご先祖様が颯爽と登場!という戦国ファン胸アツな展開があったりします。

舞台は東北~関東。
肩の力を抜き、武士の武士たる所以ゆえんを眺めてみましょう。

 

前九年の役で清原氏にチカラを借りた源氏

前九年の役で謀反を起こした安倍氏(陸奥=宮城・岩手県あたり)。

東北地方の将兵は、古来より馬術・弓術に優れているとされ、鎮圧にやってきた源氏軍だけでは制圧が難しく、そこで大きな役割を果たしたのが同じ東北の清原氏(出羽=山形県)でした。

当時の源氏軍トップである源頼義が、近場で勢力を持っていた清原光頼&清原武則兄弟に協力を頼み、源氏軍の倍以上の兵(記録では1万とも)を調達してもらったのです。
清原氏は、同エリアで一・二を争う有力者だったんですね。

結果、源氏&清原氏が勝利。
報奨として源頼義は伊予守に任ぜられ、息子の源義家も出羽守になると、清原武則も鎮守府将軍となり、奥羽支配を進めました。

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そして前九年の役から二十年ほどが経ち、どの家でも世代交代が起きていました。

後三年の役の頃、清原氏の当主は清原武貞(たけさだ)という人でした。
彼は先妻との間に清原真衡(さねひら)という子がおり、その後、安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を後妻にするのですが、この未亡人が経清の息子を引き連れてきます。

武貞はこの義理の息子を正式に養子として認め、「清原清衡(きよひら)」という新しい名前を与えます。なんだか聞いたことのある名前ですね。

しかし数年後、清衡にとっては異父弟にあたる清原家衡(いえひら)が生まれます。

つまり清原氏の中に「清原氏の嫡流である真衡」と「安倍氏の血を引く清衡」と「真衡の異母弟である家衡」という複雑な兄弟関係ができたのです。
こうなればもうイヤな予感しかしませんね。

 

清衡か家衡のどちらかを跡継ぎにしていれば…

清原武貞が亡くなると、一族内で武力衝突を伴いながら長男の清原真衡(さねひら)が清原氏当主となりました。

国史大辞典では、この跡目争いを後三年の役のキッカケと記しています。

ただ幸いなことに、ここでの争い自体は大事には至りません。
問題はその後です。

真衡は男児に恵まれず、平氏の血を引く家から養子をもらってくるのです。

この養子は成衡と名乗りました。
名前は「なりひら」か「しげひら」かわかっていないようですので、お好きなほうで変換してください。

ここで真衡が、清衡か家衡のどちらかを養子=跡継ぎにしていれば、おそらく問題はありませんでした。

しかし真衡は、どうしても皇室の流れをくむ人々と縁を強めたかったようで。
平氏の流れをくむ清原成衡を、源氏の血を引く女性(源頼義の落胤とされる女性)と結婚させ、清原氏の次世代を【平氏&源氏のハイブリッド】にしようと考えたのです。

『あれ? それでは清原氏の血が終わっちゃうんでは?』と思われるかもしれません。

が、当時はより高貴な血筋が好まれる傾向が強く、当初は、清原氏の間で問題になることはありませんでした。

話がこじれるのは、その成衡の結婚式の席で、ちょっとしたトラブルが起きてからです。

現代同様、結婚式となればあっちこっちから親戚がやってきます。
この時も、真衡の叔父に当たる吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)がやってきていました。

秀武は清原氏の三代に仕えた重鎮で、所領や配下の兵も多い実力者。
このときは大奮発して、大量の砂金で新郎新婦の門出を祝いに来たのです。

 

結婚式のお祝いにやってきた秀武を無視した真衡が逆ギレ!

まずは新郎の父にあいさつを――ということで吉彦秀武は清原真衡のもとを訪れました。

が、このときの真衡がどうにもガサツで。
碁に夢中になっていて、せっかくお祝いしに来てくれた秀武を無視し続けてしまうのです。

当然、秀武はブチ切れました。

秀武にも配下がいますし、清原氏の本家の人々も見ているわけですから、これでは「真衡は秀武を冷遇している」と言っているも同然になるからです。

顔に泥を塗られた形になった秀武は、砂金を庭にぶちまけて帰ってしまいました。
「大盤振る舞い(物理)」とか言ってる場合ではありません。

しかも、なぜか、無礼を働いたほうの真衡がブチ切れ、秀武討伐のため兵を挙げます。
いやいや、悪いのアンタでしょってばよ(´・ω・`)

秀武はこれを知ると、後継者争いに遅れをとった家衡と清衡に使いを送り、「一緒に真衡のアホを滅ぼそうぜ!」(意訳)と話を持ちかけました。

真衡と、家衡&清衡の間が決してうまくいっていないことを、当然、秀武は知っておりました。

 

ジャーン!ジャーン!ジャーン!げぇっ、源氏!

家衡と清衡はさっそく秀武への協力を決定。
村を一つ焼き払い、真衡の本拠に迫りました。

真衡は弟たちとすぐ戦おうとしましたが、家衡と清衡のほうが上手で、秀武との合流のため一時兵を退きます。

永保三年(1083年)に起きたこの騒動が、後三年の役の始まりとされますね。

そして、このタイミングで、【前九年の役】のときもこの地にやってきていた源義家が新しく陸奥守になり、東北へやってくるのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

真衡は、義家おもてなしのため、国府(県庁所在地みたいなもの)だった多賀城(現・宮城県)へ出向き、本拠地出羽を留守にします。

チャーンス!
と思った家衡・清衡は、すかさず真衡の本拠を攻めました。

が、さすがに真衡も警戒していて、家臣たちには留守中のことを事前に言いつけており、戦いは真衡サイドの勝利に終わります。
しかも真衡が、源義家と国府の軍を味方につけたため、家衡・清衡は謀反人扱いになるのを恐れて降伏を選びます。

まぁ、こうなれば矛を収めた方が……と思いきや! ここでまたしても話がややこしくなります。

なんと多賀城から出羽へ戻る途中で、当の清原真衡が亡くなってしまったのです。
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