この世から何もかも綺麗サッパリなくなってしまう――“滅亡”という文字には、そんな印象があると思います。
しかし、歴史における「滅亡」は案外と生き残りがいたりして、平安末期に滅びたとされるあの一族にも当てはまります。
文治二年(1186年)6月2日、平頼盛(よりもり)が亡くなりました。
名字をご覧いただければわかる通り、平家の一門の人であり、平清盛の異母弟でした。時期は、壇ノ浦の戦いの翌年にあたります。
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世間では「平家って壇ノ浦で滅びたんじゃないの?」とお考えの方が大多数だと思いますので、早速、彼の生涯を見ていきましょう。
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池禅尼を母に持ち皇室の女性たちにもパイプあり
頼盛は、清盛の弟たちの中で唯一、壇ノ浦の後も生き残りました。
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それは彼の血筋や立ち位置が大きく影響しています。
母親である池禅尼(いけのぜんに)が皇室の女性たちとパイプを持っており、内部の情勢をよく知っていたため、頼盛もそうした繋がりを引き継ぐことになりました。
となると、清盛や後白河法皇、そして源頼朝の間でいろいろ面倒な感じになるわけです。
池禅尼は清盛の父・平忠盛の継室だったため、頼盛も場合によっては平家の跡継ぎになれる立ち位置でした。
ただ、いかんせん清盛と15歳離れていたためそれは難しく、兄のもとで出世を重ねていくことになります。
どちらかというと清盛の嫡男・平重盛と歳が近かったため、平治の乱では一緒に武働きをしたこともありました。
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このとき逃亡していた源頼朝を捕らえたのが頼盛の親族だったため、頼朝の助命に池禅尼が動くことになったようです。それが後々平家を滅ぼすことになるのですが……まぁ当時はそんなの誰もわかりませんからね。
慣習的に「え、敵の子供生かしておくの?(´・ω・`)」と思った人は多かったでしょうけども。
清盛に冷たくされて九州へ
それが気に食わなかったのか。
この功績にもかかわらず、清盛は頼盛へ冷たい態度を取り続けます。
例えば、重盛の官位を上げまくる割に平頼盛にはそうしなかったり。嫡男を優先するのはおかしいことではないにしてもヒドイものでした。
そんな空気を感じとってか、頼盛は太宰大弐という太宰府の役人に就いた際、自ら九州まで行っています。
当時、太宰府への任官は名目上のことになっていて、現地に行く人はほとんどいなかったため、これまた清盛からは良い印象を持たれなかったようです。
九州に地盤があるのも悪くはない。
ということで、処罰や咎め立てはありませんでしたが、後白河法皇からはたびたび身勝手をとがめられており、一度任じられた官を解かれたりしています。
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せめて清盛につくか法皇につくか、早めに決めていれば右往左往することもなかったんじゃ……?
結局のところ、頼盛は兄に従うことを選びました。
一年ほど中枢から遠ざけられた後は大人しく清盛に従うようになり、清盛も頼盛への対応を少しゆるめています。
この頃から体調の優れなかった重盛を補佐するような形で、京都の警備を固めることもありました。
皇室の女性(特に美福門院・八条院)とのパイプを生かして動くことも増えています。
他ならぬ頼盛が情勢をわかってなかったのか!?
ところが、です。
平家打倒の陰謀が企てられるようになると、またしても微妙な立場になってしまいました。
鹿ヶ谷の陰謀では、中枢人物の一人が頼盛の妻の兄弟だったことで厳しい視線を浴びます。
いずれにせよ積極的には関わっていなかったようで、その場で追い落とされることはなかったのが不幸中の幸いですが、その後、保身のためか、平徳子(ときの天皇・高倉天皇の中宮・清盛の娘で後の建礼門院)が出産する際には頻繁に出仕していたというのがまた何とも。
点数稼ぎってバレると余計印象悪くなっちゃいますよね……。
また、清盛と後白河法皇の対立が深まると、後者寄りと思われていた頼盛は再び疑われるようになってしまいました。
頼盛本人は逆らうつもりはなく、行動もしていなかったので濡れ衣もいいところです。
しかし、池禅尼が清盛の父・忠盛の継室ということは、頼盛を有力者と見る人も当然出てくるわけで、本人の動きに関係なく警戒されてしまうのは仕方がありません。
問題は、頼盛がその辺をあまりよくわかってなかったんじゃないかというところです。そして……。
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