血縁同士なら、大なり小なり似通う点が出ますよね。
親には似ていなくても祖父や祖母に似ていたり、いとこだけど兄弟より似てるとか。
ただし、場合によっては、イヤな共通点を持つこともあったりして……。
今回は日本史に欠かせない一族のそんなお話。
久寿二年(1155年)の8月16日、源義賢(よしかた)が殺害されました。
頼朝のお父さん・源義朝の弟です。頼朝から見ると叔父にあたりますね。
さっそく「義」の字がゲシュタルト崩壊しそうですが、しばしお付き合いください。
源義賢は東国ヒーローとなった兄に返り討ち
今回の話は「当時まだ長子相続が一般的ではなかった」という点がカギになります。
義朝は若いころ無位無官のまま関東へ下っており、義賢は中央で成長しました。そのため、場合によっては義賢の系統が源氏の中心になると見られていたのです。
ちょっとしたゴタゴタもあったものの、時の権力者・藤原頼長という貴族に可愛がられ(意味深)、何とか京都でやっていくことができました。
しかし、義朝が正式に官位をもらって関東で勢力を伸ばし始めると、父・源為義の命で、義賢は兄と対決すべく関東へ兵を率いていくことになります。
きました、源氏のお家芸「身内同士の大ゲンカ」です。
義賢も関東で領地をもらい、勢力を築いていきましたが、ここで義朝が先手を打ちました。
息子の源義平(頼朝や義経の長兄)に「お前ちょっと叔父さんブッコロしてきてや」と命じたのです。ニーチャンひでえ。
そして源義賢も呆気なくやられてしまうのです。
こんなに身内に殺されていた源氏の人たち
甥っ子の叔父殺し――というと、後に起きた源実朝と公暁の話が有名ですね。
それが、ずっと前の世代でも起きていたんです。
争いは義朝と為義との対立から派生したものですが、それにしたってこのあたりから源氏一門は身内争いが多すぎます。
せっかくですから頼朝のひい爺ちゃん・源義親の死因から順に見てみましょう。
源頼家←母の実家に誅殺される
源実朝←兄の子に殺される ※鎌倉源氏将軍の断絶
源義親と源義朝はともかく、こうなると源氏を名乗ること自体が死亡フラグなんじゃないかと思うレベルです。
ファラオの呪い(※ただしデマ)も真っ青ですわ。
これが頼朝以降の傾向であれば清盛の呪いとも取れますが、残念なことにそのずっと前からなのです。
鎌倉幕府自体も源氏一門の足利家・新田家に滅ぼされていますし、その足利家も応仁の乱以降は一族同士でアレコレやりあいますし。
不吉な一族――というより「強い者が勝つ!」という原理原則に従っている気もしますね。
ただでさえ気性の荒い中世武士ではありますが、平氏と比べると、やっぱり激しいなぁと。
よろしければ以下の関連記事にて各武将の詳細をご確認ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
源義賢/wikipedia