高倉天皇/wikipediaより引用

源平

高倉天皇とは? 後白河や清盛に翻弄され、若くして死んだ色白の美男子

日本人の寿命と平均身長は、戦後になってから大きくのびたといわれています。

それゆえ歴史上の人物の享年や推定身長を初めて聞いたとき、驚かれる方は多いでしょう。

いかにも大柄そうな戦国武将の大半は身長160cm前後ですし、今では平均寿命にもならない70歳でも「長命」と称されていたりします。

そうした時代でも、若い盛りに亡くなると、さまざまな悲哀なり疑惑なりが生まれます。

応保元年(1161年)9月3日は、高倉天皇が誕生した日。

何となく聞き覚えがあるような、でもどんなことをしたのかはっきりわからない……そんな印象の方が多いかもしれません。

それもそのはず、この方が生きていたのは平家の全盛期~斜陽の頃にあたる上、ご本人がわずか20歳で亡くなってしまっているのです。

ここだけ聞くと何やら不穏な感じもしますが、その短い生涯は一体どんなものだったのでしょうか。

 

二条天皇に皇子がいたので可能性は低かったが

高倉天皇は、後白河天皇平滋子(しげこ)の間に生まれました。

滋子は平清盛の妻・時子の妹で、美貌と聡明さでよく知られた人です。

白河天皇の容貌については特に伝わっていませんが、高倉天皇は母に似たようで、色の白い美男子であったといわれています。同性の親より異性の親に似るっていいますものね。

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後白河天皇が譲位した後の子供だったこと。

ときの天皇・二条天皇(高倉天皇からすると異母兄)に皇子がいたこと。

そんな状況から、本来であれば高倉天皇が位につく可能性は極めて低いものでした。

しかし、後白河天皇と二条天皇が険悪な仲のまま、二条天皇が先に崩御し、さらに二条天皇の子である六条天皇がまだ幼少だったため、後白河天皇は「もうちょっと年長者が天皇になったほうが皆安心するよね^^」(※イメージです)という名目で、高倉天皇を皇太子に立てた後、六条天皇を引きずり下ろして高倉天皇を即位させます。

ちなみに、即位したとき高倉天皇はまだ7歳でした。

年長とはいったい?

当然のごとく実際の政治は後白河天皇が行っています。権力って怖い……。

 

清盛・娘との間に後の安徳天皇が生まれる

天皇に限らず、君主の仕事のうち、最も大切な一つが後継者を作ること。

乳幼児の死亡率が高いこの時代、できるだけ多くの子供を授かるために、早いうちからお相手を見つけねばなりません。

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高倉天皇は、11歳のときに平清盛の娘・徳子を中宮に迎えています。

母方のいとこ同士であり、高倉天皇にとっては6歳上の姉さん女房でした。

6年後には二人の間に皇子が生まれているので、夫婦仲としては悪くなかったのではないでしょうか。高倉天皇の年齢からすると、結婚当初は夫婦というより「新しいお姉さんができた」感じだったかもしれません。

後白河天皇の意向もあり、生まれた皇子は生後一ヶ月ほどで皇太子に立てられます。

これが後の安徳天皇です。

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人の親ともなれば、年齢的に若くても、世間的には一人前。

安徳天皇が生まれた翌年に実父・後白河天皇と義父・清盛が対立し、最終的に後白河天皇が幽閉状態になると、いよいよ高倉天皇に親政を行うチャンスがやってきました。

ときに高倉天皇は18歳。

若くて美しい君主だなんてどこのメルヘンですかね(褒め言葉)。

 

我が子が壇ノ浦で入水する悲劇は知らずに……

即位から11年――しかも若くやる気に満ちた年頃の人が、ようやく実権を持てるようになったのですから、意気込んでアレコレやらかしてもおかしくはありません。

しかし、清盛の機嫌を損ねないためには、自分がいつまでも位にいないほうがいいということも、高倉天皇は気付いていたようです。

親政を初めてたった三ヶ月で、高倉天皇は我が子であり、清盛の孫でもある安徳天皇に譲位。

それから一年程度で亡くなってしまっているので、もしかすると病気を理由として退位したのかもしれません。

暗殺と見る向きもありますが、高倉天皇が亡くなった治承五年(1181年)には、清盛や藤原邦綱(平家とうまく付き合ってた公家)なども病死しています。

清盛の死因にマラリア説があるので、もしかしたら高倉天皇や邦綱も同じ病気が原因という可能性も否定できないですね。

マラリアは蚊を媒体として伝染する病気なので、高倉天皇や清盛が亡くなった春先というのもピンとこない話ではありますが……。

ただ、明治時代には北海道でもマラリアが流行り、開拓に支障をきたしたそうですから、平安時代の京都ならその時期でもありえたんですかね。

まぁ、高倉天皇が長生きしていたらいたで、我が子が壇ノ浦で入水する(させられる)という皇室屈指の悲劇を知ることになってしまいます。

子供にも孫にも先立たれた後白河天皇について……あまり同情する気にならないのはナゼでしょうかね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
高倉天皇/Wikipedia

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