海軍大尉関行男の生涯 敷島隊の五人 上 (文春文庫)/amazonより引用

明治・大正・昭和時代

最初の神風特攻隊『敷島隊』 その歴史のウソとは?

更新日:

カミカゼこと「神風(しんぷう)特攻隊」の第一陣は、関行男隊長ひきいる「敷島隊」の5人とされている。

その秘話が『文芸春秋2014年1月号』(→amazon)に掲載されていた。

タイトルは「神風特攻『敷島隊』の真実」。
筆者はこの問題を長年取材してきたノンフィクション作家の森史朗氏だ。

この原稿のメーンテーマは、関隊長以外はほとんど知られてない平隊員のそれぞれの人生についてで、それはそれでとても興味深く、涙を誘う内容だ。

ぜひ全体も読んでいただきたいが、今回は、敷島隊について作られた「ウソ」の部分に着目して、まとめてみた。

なお、敷島隊の5人とは
隊長 関行男・大尉
隊員 中野磐雄・一飛曹
同  谷暢夫・一飛曹
同  永峯肇・飛行兵長
同  大黒繁男・上飛
である。

時系列(いずれも1944年・昭和19年)でまとめた。

 

昭和19年10月19日

特攻作戦の発案者とされる大西瀧治郎第一航空艦隊長官がフィリピン入り。

マバラカット基地の二〇一空本部で、特攻隊の可否を決める会議を開き、指揮官は関、隊員は甲種予科練10期生と決まる。

指名された兵達それぞれが「志願」することを期待されていたが、隊長の関は「一晩考えてください」。ほかの隊員も黙りこくってしまった。

そこで、彼らが練習生時代に航空隊司令だった玉井浅一中佐(二〇一空本部副長)が「行くのか、いかんのか!」と大声で一喝。
思わず全員が手をあげ、全員が「志願」したことになった、とされている。現代なら間違いなくパワハラだろうが…。

ややこしいことに、この10期生の中に、敷島隊員のうち永峯と大黒はいなかった。

 

昭和19年10月20日

この日がはじめての特攻隊の出撃となり、指名されたのは敷島隊のほか、大和隊、朝日隊、山桜隊の計4隊13人だった。

13人のうち、敷島隊と大和隊の7人が初日に出撃することになり、大西長官から、最期の水盃をわたされる。

これがのちに『日本ニュース』第232号で「神風特別攻撃隊 敷島隊の5人」として放映される有名な場面だ(NHKのアーカイブで動画が見られる)。

ニュースでは右に6人目がいるが切られているのがわかる

ニュースでは右に6人目がいるが切られているのがわかる(NHKのアーカイブより引用)

森氏はこの映像が、色々な動画を張り合わせた「偽物」であることを知る。撮影した海軍報道班員の稲垣浩邦カメラマンへの取材がキッカケだった。

こ の時点では、永峯と大黒はまだ指名されていないから、当然、うつっていない。

が、フィルムでは、この5人が敷島隊ということになっている。
7人も隊員が いるのだから、このあとも撮影フィルムにはもっと写っているのだが、「敷島隊は5人」なので、ほかのふたりはなかったこととして編集されている。

「人数がちょうど五人なので、これを敷島隊出撃のシーンと銘打って強引にデッチ上げたものである。」(137ページ)

なるほど、このカメラマンが写したという同じアングルの写真(文芸春秋にも掲載、写真はWikipediaより)には6人目がはっきりうつっている。

カメラマンがとった元画像には6人うつっている(Wikipediaより)

カメラマンがとった元画像には6人うつっている(Wikipediaより)

フィルムの後半の「大勢に見送られて滑走路を離陸する勇壮なシーン」(同)も捏造。

このシーンは
「立派な隊舎と列機とならべられた多数の基地兵力がまだ日本海軍健在なりの効果的な宣伝となっている。飛び立っていく肝心の零戦は腹下に250キロ爆弾を搭載していない」(同)

立派なクラーク飛行場から飛び立つ爆弾をつり下げていない零戦の画像がつぎはぎされた

立派なクラーク飛行場から飛び立つ、爆弾をつり下げていない零戦の画像がつぎはぎされた

森氏の取材にたいして稲垣カメラマンは「私が思いをこめて撮った隊員たちの最期の姿はまったく使われず、他のニュースとのつぎはぎ映像ばかりで失望しました。これを敷島隊5人の最期の姿と国民が信じさせられるとはヒドイ話ですね」と述べている。

では、うつっているのが敷島隊の5人ではないとしたら、のこりの2人は誰だったのか?

大和隊の山下憲行と塩田寛一であった。
いずれも甲飛10期生である。

ただ、この日は出撃したものの、敵の艦隊を見つけることができずに帰還した。

兵数が足りないと感じたのだろう、玉井中佐は、10期生以外の隊員を集め、志願をつのったが「だれも手をあげなかった」。
そのため、残りの隊員は司令部から指名されることになった。

残りの2人である、永峯、大黒はそうして、自分の隊長や司令部の上官から口説かれて、参加する。

 

昭和19年10月26日

4度目の出撃となった26日、敷島隊は、アメリカ機動部隊に特攻し、空母と巡洋艦を1隻ずつ沈没、空母1隻大破という著しい戦果をあげた。

敷島隊の特攻をうけて沈む米軍の船(Wikipedia「関行男」より)

敷島隊の特攻をうけて沈む護衛空母セント・ロー(Wikipedia「関行男」より)

 

昭和19年10月29日

各新聞の1面に華々しく報道。
「必死必中の体当たり」などと絶賛された。

絶賛された報道(関いくお)

華々しく報道された(ふるさとにっぽん「関行男」より)

 

昭和19年11月9日

この日、日本ニュースが映画館で放映され、20日の敷島隊と大和隊の合同出撃式の5人が、国民の間では、敷島隊ファイブとして定着した。

だがこれまでまとめたように、敷島隊5人の「最期」の出撃の映像はなかったのだ。戦争によって「消された」若者たちそれぞれの国への責任、家族への愛、見られなかった青春を思う。

編集部

【参考】
『海軍大尉関行男の生涯 敷島隊の五人 上 (文春文庫)』(→amazon
『文芸春秋2014年1月号』(→amazon



-明治・大正・昭和時代

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.