『赤毛のアン』(作・モンゴメリ)の翻訳者としても有名な村岡花子さん。
その生涯を描いた朝ドラ『花子とアン』であり、主人公・花子の“腹心の友”蓮子さんを仲間由紀恵さんが演じています。
モデルとなったのは“大正三美人”と讃えられた情熱の歌人・柳原白蓮さん。
今回、彼女とご実家の柳原家について調べてみました。
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明治以降は伯爵となった柳原家
柳原白蓮は、1885年(明治18年)生まれの歌人。父は京都出身の公家で、明治以降は伯爵となった柳原前光です。
この柳原家、日野資明(鎌倉時代~室町時代)を祖としますが、さらにたどると藤原北家(藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つ)の流れをくむ名家です。祖先には日野富子や藤原不比等、藤原鎌足など、歴史の教科書に並ぶそうそうたる方々が居並びます。
白蓮の生母は、この柳原前光のお妾さんの一人で柳橋の芸者だった奥津りょう(別名・愛子)さん。しかしこの奥津りょう、“没落士族の娘”とのことですが、実は「没落などしちゃいかんだろ!」「させちゃいかんだろ!」と思ってしまうお姫様でした。
芸者だったお母さんの父は勝海舟より偉い江戸幕府の重臣
奥津りょうの父君は、幕末の幕臣・新見正興(しんみ・まさおき)というお方。新見は日米修好通商条約の批准書交換のための使節団「万延元年遣米使節」の正使(トップ)でした。目付には近年再評価著しい幕臣・小栗忠順(小栗上野介)が従っています。
新見と小栗はこの時、米艦・ポーハタン号で太平洋を横断しましたが、共に航行したのが初めて太平洋を航行した幕府の軍艦の咸臨丸。あの勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉が乗船していました。
外交に尽力した父が死ぬと養女に行った先で姉とともに芸者に売られる
幕臣として活躍した新見正興は、横浜市戸塚区品濃町と千葉の上総に領地を持っていましたが、明治維新の混乱の中で没落、48歳で病没しました。そして新見正興の三姉妹のうち、次女のゑつさんと三女のりょうさんは奥津家の養女になり、柳町に芸者として売られました……。
養父母、それはひどすぎるだろ!
……しかし横須賀に製鉄所を作るなど先見の明があり、日清・日露戦争の勝利の功労者とも言われる小栗上野介も斬首させられましたし、仕方がなかったのでしょうか……。
伊藤博文にも気に入られた美女
しかしゑつさんもりょうさんも大変な美人で(ちなみに新見正興も相当な美男子だったそうです)、りょうさんは伊藤博文と柳原前光が落籍を競いあい、結局りょうさんは柳原前光のお妾さんとなって18歳の時に白蓮を出産します。しかし産後体調を崩し21歳でお亡くなりになりました……。
白蓮は柳原前光の正妻・初子の次女として入籍し、実の母・りょうさんのことを知らずに育ちました。
白蓮の義母は宇和島伊達藩のお姫様
しかしこの義理の母の初子さんも凄い家のお姫様でした。幕末に福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬と共に四賢侯と讃えられた、伊予宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)の次女だったのです。
伊達宗城といえば、やはり村田蔵六(後の大村益次郎)と宇和島城下の提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)に国産の蒸気船を造らせたエピソードが有名です。国産第1号の蒸気船は、以前より蒸気機関の研究を進めていた薩摩藩がペリー来航の翌年に建造しましたが、宇和島藩も苦心の末、その2年後に蒸気船を建造します。
それまで日本を、中国の冊封体制下の属国か何かだとナメていたかもしれない西欧列強も、この日本の底知れぬ技術力には驚いたと思います。こうしたことの一つ一つが、日本を西欧列強による植民地支配から守ったのだと思うと、宇和島藩のガッツには敬意を表さずにはいられません。

伊予宇和島藩主伊達宗城(Wikipediaより)
白蓮と大正天皇はイトコ!
しかし柳原家の中だけをみても、公家、幕臣、開国派の大名と、維新の勝ち組と負け組の子孫が、伯爵になったり、没落したり、売られたり、芸者になったり、妾になったりと、ひとつの屋根の下で様々な運命に翻弄されています。
さらに白蓮の父・柳原前光の妹の愛子様は、明治天皇の典侍で大正天皇の生母となりました。つまり白蓮と大正天皇は、イトコ同志なのです。
明治維新とは、やんごとなき方々から下々まで、多くの日本人が多大な犠牲を払った想像を絶する大変革だったのだと、改めて思いました……。
『そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ』
―― 白蓮、辞世の句
重久直子・記
参考:http://www.gouann.org/new_box/omoro/om23_shinbashi_aiko/om23_shinbashi_aiko.html