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明治・大正・昭和時代 あさが来た

あさが来たモデル・広岡浅子69年の生涯をスッキリ解説!銀行・保険・女子大などを手がけた女実業家の素顔

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岐路に立った加島屋

大阪の商人は、明治維新を契機に岐路に立たされます。

今までの大名貸しは成り立ちません。新たな産業を模索せねばならんのです。

これを終わりの始まりとみなすか、新たな道とみなすか?
広岡浅子が選ぶ道は、後者に決まっています。

目を付けたのが、炭鉱業でした。

政府とつながりが深い実家の三井物産は、既に炭鉱経営に着手。
浅子も、信五郎を名目的なトップとして「広炭商店」の経営に乗り出します。

炭坑の他にも、加島屋は様々な改革に取り組みます。年表で追ってみましょう。

◆明治19年(1886年)、広炭商店を設立。翌明治20年(1887年)には潤野炭坑(福岡県飯塚市)を買収します。炭鉱業で賑わう筑豊に、浅子が先鞭をつけたことになります。
◆明治21年(1888年)、加島銀行開業。頭取は正秋で相談役に信五郎。
◆明治22年(1889年)、尼崎紡績開業。信五郎が役員に就任。
◆明治25年(1892年)、日本綿花株式会社設立(のちにニチメン、現在の双日に繋がる系譜)。信五郎が関与。

浅子も懸命に働きましたが、役職はなし。
それというのも、明治時代においては女性の活躍に制限があったからです。

当時の理想は、夫唱婦随でした。
明治維新で世の中が変わったとはいえ、男女の感覚はまだまだ変わりません。

明治31年(1898年)発布の民法で定められたところによれば、女性は「無能力者」であり、財産所持や契約締結ができないのです。

江戸時代には「化粧料」のような女性名義の財産があったものです。
ある意味、明治は後退の時代です。

彼ら明治政府が参考にした「ナポレオン法典」は、法体系としては優れていながら、ナポレオン個人の男尊女卑に基づく価値観が反映されており、現在では女性の権利を制限したものとして批判対象とされます。
西洋由来の考えを取り入れたところで、女性の権利が進歩するとは限らなかったのです。

ちなみにナポレオンの女尊男卑傾向に反発した女性知識人にスタール夫人がおりました。

スタール夫人はクセもスゴいが行動力もパネェ! ナポレオンを敵にして一切怯まず

 

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ピストルを忍ばせ、炭坑へ!

1894年の日清戦争に勝利した日本は、更にこれからだ!と勢いに乗り出します。

このころ浅子は、九州は筑豊の潤野炭坑まで出向きました。

洋装で、胸にはピストル。
当時の人々は、「後家さんが炭坑を始めた」と信じていました。
未亡人でもなければ、あんなに出しゃばる女はいないだろうというわけです。

炭坑内部に乗り込み、坑道開削の監督までこなす浅子。

そのお陰で、明治27年(1894年)に56人だった炭坑労働者数が、明治30年(1897年)には268人にまで増加します。

絶好調の潤野炭坑を、明治32年(1899年)、浅子は官営八幡製鉄所に売却しました。
日清戦争後の好景気で、高く売れたのです。

官営八幡製鉄所/wikipediaより引用

 

女子教育への道

炭鉱経営の次に広岡浅子が目指したもの。
それが女子教育でした。

前述の通り、明治政府になったからといって女子の道に光が見えてきたわけではありません。
権利面では、むしろ後退した部分もあります。

その一例が「夫婦同姓」です。

東アジアでは、伝統的に「夫婦別姓」が当然のことでした。
例えば楊貴妃であれば「楊家出身の貴妃という意味」であるように、実家の姓が識別に用いられています。

ところが明治以降、西洋から「夫婦同姓」が持ち込まれたわけです。

教育に関してもそうでした。
明治政府は思いついたように女子留学生を海外に派遣したものの、帰国後のフォローはおざなり。

西郷の倒幕で民は腹いっぱい食えるようになった?明治維新のマイナス面あれこれ

転機は明治29年(1898年)。
浅子の元に教育事業計画を抱えた成瀬仁蔵が訪れて来ました。

当時の女子教育推奨者は、新島襄・八重夫妻のようにプロテスタントが多くおりました。
成瀬もプロテスタントです。

ドラマ『あさが来た』では、成澤泉という役名で、瀬戸康史さんが演じています。

成瀬仁蔵/wikipediaより引用

こうしたスポンサー依頼はよくあり、浅子はマトモに相手にしませんでした。

が、成瀬は別でした。
彼の『女子教育』論を読むうちに、目を見開かされたのです。

 

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ついに日本女子大学の開校へ

幼い頃から、花嫁修業よりも読書や相撲が好きだった浅子。
女が相撲を取るなと言われ、髷を切ったほどの浅子。

彼女にとって、女子教育は自らを解放するような、かつての自分にエールを送るような、意義あるものとして見えても何の不思議もありません。

そこで浅子は、奈良の豪商・土倉庄三郎を引き入れ、5千円という大金を成瀬に出資。
はじめのうちこそ、炭坑経営を行いながら意見を述べていた程度ですが、次第に前のめりになってゆきます。

明治30年(1897年)には、女子大学の創設に向けて、発起人会が開催され、創立委員が選出されました。

政治家や新聞記者も招待しての、華々しい創立披露会です。
しかし、現実には日清戦争後の好景気が失速し、出資金も停滞しがちでした。

当の成瀬ですら弱気になる中、浅子は彼の背中を押し続けました。
いや、共に走り続けたと言った方がいいでしょう。

そして実家の三井家から土地の提供を受け、校舎工事を開始。
明治34年(1901年)4月、念願叶います。

それが日本女子大学の開校でした。

成瀬記念講堂

どんな道を歩むにせよ、この学び舎で身につけたことを為せば、社会の役に立つはず――。
浅子は、学生たちをそう励ましました。

ただしドラマ内の「柔らかい心」は創作のようで。史実での浅子は、ガンガン突っ込んでゆくタイプですね。

日本女子大学開校により、浅子の名は日本随一の女傑として名をと轟かせることとなります。

教育熱心であった浅子は、加島銀行等の「草島寮」でも従業員に教育を実施。
人を育てることに力を注いだ人生でした。

なお「草島寮」の寮長をつとめたことのある中川小十郎は、台湾銀行や朝日生命保険(現・大同生命)、立命館大学の運営携わる歴史的人物で、浅子の協力者でもありました。

 

生命保険業へ

広岡浅子の始めた事業は、残念ながら現在まで残らなかったものもあります。
加島銀行も、昭和恐慌を切り抜けられませんでした。

しかし、現在に至るまで残った事業もあります。

それが保険業の大同生命です。

日本にも頼母子講のような仕組みはありました。
が、本格的な保険業は明治維新以降に導入。

当初は、保険業そのものに対して
「人の命を金儲けの種にするつもりか!」
という反発がありました。

明治28年(1895年)、浄土真宗が門徒のために「真宗保険」を設立し、生命保険業に乗り出しています。
明治維新以降、仏教も世の変転についていけず、資金確保に四苦八苦していたのです。

しかし、真宗保険の経営は暗礁に乗り上げてしまいます。

信者だけ、しかも上層部が宗教団体で実業経験のない人だらけですから、上手く行かなくても仕方ありません。
そこで縁が深い広岡家に対し、浄土真宗が救済を願ってきたわけです。

浅子は信心深いわけでもありませんし、むしろ宗教には冷めた目を向けておりましたが、ビジネスチャンスとなれば話は別。
宗教色を排除した「朝日生命」(※現在の朝日生命とは別)とし、経営再建に乗り出したのでした。

しかし、明治33年(1900年)の恐慌で、早くも朝日生命の経営に暗い影が落ち始めます。

そこで、浮上したのが
・朝日生命
・護国生命
・北海生命
の三社合同案でした。

この三社合同による「大同生命」が開業したのは明治35年(1902年)。
初代社長は浅子の義弟・政秋です。

「小異を捨てて大同に就く」
そんな語彙から名付けられた社名のもと、
・加入者本意
・堅実経営
をモットーにした生命保険会社を始めたのでした。

 

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浅子の家族とプライベート

ドラマ『あさが来た』では、浅子の事業だけではなく家庭生活も描かれます。
ただし、フィクション部分が多くなっております。

一つずつ確認して参りましょう。

◆夫に妾を薦めるシーンの真実は?

ドラマでは、信五郎が妾を持つかどうか、浅子が心を痛めております。

が、史実はもっとアッサリしたもので、実家からついて来た使用人女性の小藤を、夫の妾として勧めたほどです。
そんな浅子に、周囲は驚いたのだとか。

小藤は万事控えめな女性でした。
夫と小藤との間に生まれた子を、浅子は分け隔てなく育てたそうです。

浅子の実子は、女児の亀子のみ。
男児を産むまで家にいるよりも、小藤に出産育児を任せて事業に励みたかったのかもしれません。

◆娘の亀子はどんな性格?

劇中では千代という名前でした。

働く母親に反発することもある気の強い性格としてドラマに登場してましたが、それはあくまでフィクション。
おとなしい女性で、浅子が頼りなさを感じるほどだったとか。

彼女は、一柳子爵家の恵三を婿養子として取り、この恵三が広岡家の後継者となっています。

◆五代様との出会いは?

ドラマではディーン・フジオカさん演じる五代友厚がことのほか活躍します。
史実の広岡浅子の人生においても、接点がまったくなかったわけではありません。

しかし、そこまで濃密な交流はありませんでした。
明治期大阪を支えた人物として、ドラマを彩るために登場したようです。

五代友厚(才助)49年の生涯をスッキリ解説!西郷や大久保に並ぶ薩摩藩士の功績とは?

◆キリスト教洗礼

浅子は晩年、キリスト教の洗礼を受けております。
成瀬との交流を考えますと、妥当なところでしょう。

宗教に打ち込んでからは、囲碁のような娯楽趣味をやめてしまったようです。
晩年は、キリスト教婦人会の活動を熱心に行っておりました。

◆『花子とアン』とのつながり

後進女性育成に力を注いだ浅子。
静岡御殿場における合宿会場には、村岡花子の姿もありました。

朝ドラ主人公が、朝ドラ主人公を育てたのでした。

1919年(大正8年)、浅子は腎臓炎で亡くなりました。

享年69。
晩年まで、女子教育とキリスト教婦人会の活動に尽くしています。

彼女が執筆活動の中で用いたペンネームの「九転十起生(きゅうてんじっきせい)」。
七転び八起きどころか、9回転んでも10回立ち上がるというその名に相応しい、真っ直ぐで波乱万丈の生涯でした。




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文:小檜山青

【参考文献】
広岡浅子 明治日本を切り開いた女性実業家 (星海社新書)』小前亮
広岡浅子 新時代を拓いた夢と情熱 (新人物文庫)』歴史読本編集部

 

 



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