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五千円札新渡戸稲造/wikipediaより引用

いだてん特集 明治・大正・昭和時代

新渡戸稲造72年の生涯をスッキリ解説!『武士道』以外の功績は?(実は国際結婚)

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東洋と西洋の架け橋になりたい

明治16年(1883年)。
新渡戸は東京大学に入学を果たします。

外山正一教授から入学動機を聞かれた新渡戸は、こう答えました。

「私は、太平洋の橋になりたいのです」
英文学を学び、東洋の長所と西洋の長所を発信し、架け橋になりたい――そんな思いでした。

しかし、東大ではすぐに失望することとなります。
出来たばかりの当時、新渡戸の向学心にふさわしいほどの教員がいなかったのです。

そのため、ほどなくして退学。
明治17年(1884年)になって渡米を果たし、ジョンズ=ホプキンス大学へ入学、3年間学ぶことになります。

学費の高さに苦しむ新渡戸は、慎ましい暮らしを余儀なくされますが、実り多い留学でした。

学友には、第28代アメリカ合衆国大統領となるウッドロウ・ウィルソンがいたというのですから、驚きですね。

第28代アメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソン/wikipediaより引用

 

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クェーカー教でメアリーと出会い

明治19年(1886年)。
新渡戸は学問だけではなく、大切な出会いを果たします。

キリスト教徒として、どの教えが自分にあっているのか、新渡戸は悩み続けておりました。
入信以来の悩みでもあります。

そんな新渡戸が『自分に合う』と見いだしたのが、クェーカー教のボルティモア友会でした。

人類平等を目指すクェーカー教ならば、自分が目指した東洋と西洋の価値観融合を達成できる――。
会員となった新渡戸は、メアリー=エルキントンという女性と出会います。

クェーカー教徒の家で生まれ育った彼女は、新渡戸の講演を聞いて日本に興味を持ち、是非話が聞きたいと彼のもとを訪れて来たのです。
運命の出会いでした。

当時のアメリカは、ヨーロッパと比較すればまだ新興国。
そこで新渡戸は、この年、渡欧を目指したのです。ドイツに留学し、ボン大学で学び始めました。

が、明治22年(1888年)、長兄・七郎が死去。
次兄・道郎は既に無くなっており、三男の稲造が新渡戸家に復帰して家を継ぐほかなくなります。

新渡戸はドイツに渡ってからも、メアリーと文通を続けていました。
この手紙のやりとりで、2人は結婚の強い意志を確認します。

当時はまだまだ珍しい国際結婚。
新渡戸は慎重に考え、結論に至ります。実際、メアリーの父は反対したものの、クェーカー教徒仲間の説得もあり、ついに折れました。

出会いから5年後の明治24年(1891年)元旦。
二人は結婚を果たします。

夫は30歳、妻は33歳という夫婦でした。

 

教育者としてスタート

この歳、新渡戸は日本に新妻メアリーとともに帰国、母校である札幌農学校の教授となります。

新渡戸は主任教授、予科主任と出世。
農業から語学まで、様々な教科を担当しています。

新渡戸稲造/wikipediaより引用

学外でも、私立中学である北鳴学校の校長も兼任しました。
さらには、昼間に勉強できない貧困家庭の子弟を教育する、夜間学校の「遠友夜学校」も設立。

ここまでなんでもこなしていたのは、頼まれたらば断ることができないその性格ゆえでした。

そんな新渡戸夫妻にも、悲しい出来事に見舞われます。
明治25年(1892年)に授かった一子・トーマス(遠益)が、わずか8日で夭折してしまったのでした。

 

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日本には『武士道』がある

このころ、日本は日清戦争で勝利を収め、国際社会の中で存在感を強めておりました。

日本中が勝利に沸き立つ中、新渡戸夫妻は沈黙しておりました。
クェーカー教徒は全ての戦争に反対する立場です。複雑な胸中でした。

明治31年(1988年)。
新渡戸は妻メアリーとともにカリフォルニアで療養しておりました。

このとき、彼は英語で『武士道』を書き上げています。

武士道/wikipediaより引用

執筆の動機は、ドイツ留学中にありました。

ベルギー人のラブレー教授に、
「宗教教育もないのに、日本人はどうやって善悪を区別するのかね?」
と問われたことがあったのです。

新渡戸は、日本には武士の美質であった「武士道」があると述べました。
この新渡戸の著書による武士道が現在まで広まっておりますが、留意すべき点もあります。

あくまで太平の世である徳川時代の規範であり、戦国以前の武士の規範とはまるで異なるということ。
源平時代にせよ、源平時代にせよ、武士ははるかに荒々しい態度で戦っておりました。

もうひとつ。
新渡戸が生きていた頃から、彼はこの武士道は消滅しつつあると危機感を抱いておりました。
日清戦争・日露戦争の勝利の後あたりから、そのことを感じていたのです。

日本には武士道があるからそれでよいのだ――新渡戸の主張はそんな単純なものではないことをご留意いただければと思います。

ともかくこの『武士道』は、世界的ベストセラーになりました。
背景には、極東の国に過ぎない日本が、日露戦争でロシアを破ったという歴史的事件がありました。
その秘密を見いだすために、『武士道』が世界中に読まれたわけです。

ただし、これを日本人の美徳や精神性に結びつけることは、危ういことでもありました。

勝利といえども、中身は辛勝。
期待したほどの戦果も得られていません。

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そもそも背景には、ロシア帝国の衰退と弱体化がありました。

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当初は喜んでいたアジア諸国も、帝国主義に立ち向かうではなく、その仲間入りを果たすという日本に失望することになるのです。

そしてこの後の歴史の流れは、新渡戸自身を苦しめることにも繋がります。
東洋と西洋の架け橋になりたかった新渡戸にとって、晩年に訪れる架け橋が燃え尽き、戦争に向かっていった歴史は、苦いものに他なりませんでした。

 

日本人の精神を教育したい

明治34年(1901年)、農政学に詳しい新渡戸にとって、うってつけとも思えるオファーがありました。

台湾総督府技師、同殖産課長として働くということです。

新渡戸は糖業発展に尽力することになりましたが、本人としては納得できない部分もありました。
が、同郷の台湾総督府民政長官・後藤新平の誘いを断ることはできません。

植民地支配に加担したという点は、彼の経歴における汚点とみなされています。
新渡戸自身がそれに気づかなかったはずがなく、以前からあったうつ病の傾向がより強まりました。

時は日露戦争のあと。日本は上昇してゆくと思われた頃です。

しかし、新渡戸は危機感を覚えていました。
驕り高ぶった日本人の精神性は、危険である、と。

だからこそ、植民地支配に協力してしまった贖罪の意味もこめて、教育に邁進し、日本人の精神性を鍛えるべきであると考えたのです。

日露戦争では、与謝野晶子が『君死にたまふことなかれ』を発表しております。
知識人の中にも、この勝利は薄氷を踏む辛勝であり、このままでよいのか?と疑念の呈する声もありました。

しかし、そうした声は日露戦争後に強まった言論統制の流れにより、封じられてゆくことになります。




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新渡戸の懸念は正しかったのです。

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