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西竹一/wikipediaより引用

いだてん特集 明治・大正・昭和時代

西竹一(バロン西)42年の生涯を解説!世界のセレブに愛された貴公子の凄絶な最期

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西竹一とウラヌス

昭和3年(1928年)、アムステルダム五輪馬術競技に、日本陸軍から4名が派遣されました。
陸軍内には東条英機中佐はじめ、費用対効果を疑問視する声もありましたが、世論のためにも参加することにしたのでした。

当時の西は、宿題を別の士官に代筆させて叱られることもある、そんな子供っぽいところもありました。
このときは叱られて素直に謝罪し、そのしおらしさが叱った側を感服させてしまったほどだとか。

それでも馬術の訓練については熱心で、たいしたものだと周囲から見られるようになっていました。

昭和5年(1930年)、ロサンゼルス五輪の馬術競技選手候補が選抜されました。

西はその中で最年少候補です。
そんな折、イタリアからこんな話が届きました。

「馬体が大きすぎて、持て余され、売りに出されている障害競技用のアングロノルマン馬がいる。血統書はないが、実力はありそうだ。名はウラヌス(天王星)だ」

西は、この馬の購入を決め、ヨーロッパまで購入に向かうことにしました。
まさにそれは運命の出会いとなるのです。

ヨーロッパに向かう船旅の中、西ははしゃいでいました。
軍務から解放され、七三分けにした美男です。当時の日本人は背広を着こなせず、ネクタイが曲がっているような者もおりました。

しかし西は、さっと着こなしておりました。

ヨーロッパへ向かう豪華客船上で、西はアメリカ人夫妻と意気投合します。
ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻でした。ハリウッドスターとして人気絶頂にあった二人です。

ダグラス・フェアバンクス/wikipediaより引用

フェアバンクスと西は、大親友と言えるほど意気投合しました。
夫妻が来日した際には、自宅に呼んで毎晩どんちゃん騒ぎを繰り広げたのだとか。

メアリー・ピックフォード/wikipediaより引用

イタリアにたどり着いた西は、まとまった現金を持参し、ウラヌスの元へと向かいます。
ウラヌスを見た西は、その181センチもある巨体に目を見張ります。

まれに見る、巨大な馬でした。

参考までに比べますと、サラブレッドは平均160-170センチ。
日本の戦国期の馬は、ポニーサイズの147センチ以下ほどのものがほとんどです。

ウラヌスの種であるアングロノルマンでも、平均は155-170センチ。
180センチ台となると、ばんえい競馬で知られるペルシュロン種等、かなり大型の種に限られております。

アングロノルマン/wikipediaより引用

巨体であるとはいえ、障害競馬の馬としては理想的でした。
筋肉が発達していて、肩は理想的に傾斜しています。
栗毛で、頭部に白い星が入っておりました。

巨体に驚きながらも西は、果敢にまたがります。西にとって、これほど巨大な馬は初めてのこと。
西竹一とウラヌス――これぞまさに、運命の出会いでした。

家庭環境もあってか、名門の子息でありながら孤独なところがあった西。
実母と再会しても、涙すらこぼさなかった西。
わがままと言われるほど奔放ながら、周囲から理解されないと悩んでいた西。
そんな彼にとって、ウラヌスは特別でした。

「人にはなかなか理解されないが、ウラヌスは自分を理解してくれる」
西はそう語っていたほどです。

名騎手とは、馬がどれほど自分を理解してくれるのか語るもの。西竹一もそんな一人でした。

このあと、西はヨーロッパの馬術大会を制覇し続けます。
「バロン・ニシ」
「ウラヌス」
この二つの名が、ヨーロッパを駆け巡ることとなったのです。ウラヌスのもとの持ち主が、惜しんで買い戻そうとしたほどであるとか。

美男で人馬一体の西は、社交界でも大いにモテます。
西はそのことを武子への手紙にもさらりと書いてしまう、そんな裏表のない性格でした。

春から秋にかけてヨーロッパの馬術大会を制覇した西は、日本へと帰国します。
西は騎兵学校にウラヌスの飼育を依頼するのですが、ここで校長が激怒します。

「書類だけで頼みこむとは何事か! 本人が挨拶に出向いてこんか!」

これは無論表面上の理由でしょう。西の華やかな活躍に嫉妬混じりの反感を持つ者も、出始めていたのです。西が軍務ではなく馬術鍛錬にばかり打ち込むことへの反発もありました。

こうした憂鬱な状況を乗り越え、西は訓練に励む他ありません。
こうした状況の中で、西がウラヌスとだけは心が通じ合うと考えても、無理のないことであったかもしれません。

ウラヌスはあまりに力が強く、障害を落としてしまう癖がありました。
西はこの欠点を矯正するため、粘り強く取り組んだのです。
その方法は彼独自のもので、周囲の主流であったイタリア式馬術とは異なるものでした。

かくして西は、ロサンゼルス五輪馬術競技体表選手として、選抜されることとなります。

29歳の中尉は、最年少です。
誰の目から見ても、西が最も期待されていることは明らかでした。

それなのに、彼本人は武子にこう言ったのだとか。
「どうも俺は、お情けで選ばれたようだ」

本気なのか、照れ隠しなのか、ちょっとわかりませんね。
当時、日本の馬術はヨーロッパには歯が立たないと思われていました。

それでも、参加することに意義があると考えられていたのです。

 

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彼は暗い世の輝きだった

西はこのあと、時代の寵児として喝采を浴びることとなります。
その背後にあった世界情勢において、対日感情が悪化していたという点も考えねばなりません。

昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)柳条湖事件

そしてロサンゼルス五輪の昭和7年(1932年)には、第一次上海事変、ついに満州国建国にまで至っているのです。

国際連盟は、リットン調査団派遣を決定。満州事変や満州国の妥当性について調べ始めているのです。

国際的に、日本への目線が冷たくなっていました。
黄禍論も高まり、アメリカの日系人は辛い思いの中で生きていたのです。

新渡戸稲造72年の生涯をスッキリ解説!『武士道』以外の功績は?(実は国際結婚)

そんな中でのバロン・ニシは、暗い影のつきまとう日本の像からはほど遠い人物でした。

長身のハンサム、洒落たファッション、明るく社交的。
流暢に英語を話し、ハリウッドスターたちとパーティを楽しむ、人馬一体の男爵――。

日本にも、こんな魅力的な紳士がいるのだと、世界はホッとしたのです。彼の前では、政治とスポーツを切り離すことができました。

しかし、運命は西をこのまま輝きの中に留めてはくれなかったのです。

 

ロサンゼルスのバロン・ニシ

昭和7年(1932年)のロサンゼルス五輪には、田畑政治率いる水泳選手団らも含めた日本人が参加しました。

現地では、日系アメリカ人も熱い目線を彼らに送っています。
そればかりではなく、大量の寄付金も準備し選手団を支えようとしました。

田畑政治が熱心に指導し、強くなりつつあった水泳競技の際には、プールサイドが大勢の日系人で埋まったほどです。

当時、アメリカでの対日感情は悪化しています。
満州侵略が不当とみなされていたのです。

そんな中、日系人たちは周囲の冷たい目線を感じながら生きてゆかざるを得ませんでした。
五輪で日本人に声援を送ることで、彼らはそうした憂鬱を忘れることができたのです。

日本と五輪の関係は、こうした日系人の協力を抜きにしては語れません。

そんな中、西は贅沢な浪費家であるにも関わらず、馬術選手団会計を任されていました。
それも彼の貴公子としての態度、華やかさゆえ。
彼は到着すると、気前よくタキシードを選手全員分注文しました。

西のポケットには、銀のボトル入りの高級ウイスキーが入っています。
当時は禁酒法の時代であり密造酒が飲まれておりましたが、西の口には合わなかったのです。

馬術選手の練習は午前中のみ。
午後になると、西は自動車で颯爽と出かけてしまいます。

ハンサムで颯爽とした西に、女性たちが熱い目線を送っておりました。

西の部屋には、ひっきりなしに女性から電話が掛かってきていたのです。
その中には、ハリウッド女優も含まれていましたし、西がその誘いを断るはずもありません。

西の遊び相手は、女優ばかりではありません。
他国の選手ともにこやかに交流するその姿は、ひときわ目立つものでした。

馬術とは、ヨーロッパ貴族の技芸であったもの。
現在でも、イギリスの競馬界ではエリザベス女王はじめ王族が馬主となり、着飾って観戦することもしばしばあります。
競馬場とは、貴族社交の場であるのです。
そういったヨーロッパ人からすると、日本の競馬場はあまりに庶民的で驚いてしまうほどだとか。

西は、こうしたヨーロッパ的な馬術の美意識にも合致しておりました。

騎手が華やかに遊んで何が悪いのか。
貴族的に社交界へ出入りしてこそ当然だという、そんなダンディーな美意識が、西にはぴったりとあてはまっていたのです。

流暢な英会話をこなす西は、こうした社交において何の障害もありません。
ハリウッドの名優たちとすら交流を重ねます。
友人であるダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードの夫妻とも、一年ぶりに再会を果たしたのでした。

派手好きの西は、ラスベガスのカジノで大金をすってしまったこともあります。
日本に送金を求めたものの、一度目はともかく、二度目は断られてしまいます。
それでも西は、借金をしてしのいだのでした。

西のこうした自由奔放で西洋貴族のような振る舞いは、生真面目な日本人からすれば苦々しいものであったことでしょう。

しかし、だからこそアメリカ人、特に女性からは熱視線を送られたわけです。

日本への感情が世界的に悪化する中、彼は憧れの貴公子「バロン・ニシ」でした。

 

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我々は、勝った

昭和7年(1932年)、8月14日、午後4時――。
ロサンゼルス五輪は、最終日、馬術競技を迎えていました。

日本の馬術競技は、さしたる期待はありません。団体戦負傷欠場により不参加が決定しています。あとは個人競技のみです。

この競技でも、入賞候補者すら調子を出せず、失格者もあり、まだ結果が出ていません。
馬を比較しても他国よりも小さく、苦戦は必至でした。

日本陸軍の栄誉が掛かったこの競技。
最年少の西に、重圧がのしかかってきます。
西はヨーロッパ転戦の実績も短く、さほど期待されておりませんでした。

その日、西は朝食を取り終えると、ウイスキーを銀のボトルから一口飲み、送迎車に乗りました。
走行距離メーターに1が揃っている様子を見て、ついていると感じたようです。

この日の「大障害飛越」競技は波乱模様。
西の前に走った9選手のうち、完走者は僅か3名のみでした。

障害馬術とは、難しいものなのです。
馬は人よりも神経質であるとすらされています。
大観衆の興奮と熱気で、馬の駆け足が乱れてしまったのかもしれません。

競技開始――。

ロサンゼルス五輪での西竹一とウラヌス/wikipediaより引用

小旗がさっと振られ、ウラヌスの巨体が障害へと向かってゆきます。
さっと障害を飛越したその人馬一体の姿を見て、これはいけるかもしれない――そんな期待感が広がってゆきました。

西が激しく鞭を入れると、ウラヌスは巨体であざやかに障害を飛び越えてゆきます。
減点につながるミスがあると、観客席からドーッとざわめきがあがります。

皆、この人馬に感情移入していたのでしょう。

ウラヌスが障害手前で止まってしまった際には、観客席からは悲鳴があがったほど。それでも人馬はへこたれずに、障害に再度向かいクリアしたのでした。

人馬が最後の障害を越えてゴールすると、万雷の拍手が響き渡ります。

得点は、減点8。この時点で1位です。
このあと、優勝候補も競技をしたものの、西とウラヌスの得点を上回ることはありません。
完走者たった5名という、激戦でした。

「優勝者は、バロン・ニシ、ジャパン!」

場内放送が響くと、歓声がどっと沸き上がります。
のちに東京五輪招致に尽力する田畑も、この西の快勝に感動した一人でした。

控え室で記者団に囲まれた西は、短くこう応えます。

“We won.”(我々は勝った)

この短い言葉を、日本人は大日本帝国である我々が勝利したと解釈しました。
一方、他国ではウラヌスと西が勝利したと解釈しております。

西はどういうつもりで語ったのか、付け加えておりません。

西は最も魅力的な日本人紳士として、時代の寵児となったのです。どんな大金を積んでもウラヌスを買い取りたいという申し出もありましたが、西は断りました。

しかし、祝賀については断りません。
馬術競技団の祝賀会すら、ハリウッド女優たちと日夜パーティに明け暮れ、ついに参加しなかったのだとか。

名優スペンサー・トレイシー、ロバート・モンゴメリー、チャーリー・チャップリンも、祝いの席に駆けつけます。

スペンサー・トレイシー/wikipediaより引用

ロバート・モンゴメリー/wikipediaより引用

チャーリー・チャップリン/wikipediaより引用

パッカード社からは、記念の高級車が贈呈されました。

海を挟んだ日本では、妻子が喜び「パパ万歳!」と感動の声をあげております。
こうした出来事が、次から次へと起こったのです。

アメリカ、ドイツといった国からも西の優勝を祝いたいとの声があがったほど。
政治家や外交官をさしおいて、西は世界中で最も人気があり、知名度が高い日本人紳士となったのでした。
一度帰国しかけながらも、またトンボ返りしてまで祝賀会に出席したほどですから、まさに並外れたパーティー好きです。

帰国後も、西の大歓迎ムードは止まりません。

ロサンゼルス五輪で成績を残した日本人選手の中で、最も熱狂的な歓迎を受けた時代の寵児――。
それこそが、西竹一でした。

西とウラヌスをデザインした子供用の着物/wikipediaより引用

西はNHKラジオでは、しおらしく優等生的な原稿を読み上げております。
皆様の応援あっての優勝であると、彼は語ったのです。

大人気の反面、彼には冷たい目線も注がれました。
西のような日本人離れした奔放さ、華やかさは、必ずしも受け入れられるものではありません。




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露骨にあんな馬術は邪道だと罵る軍人や、反発戸嫉妬を見せる者もおりました。西が漏らしていた、ウラヌスしか自分をわかってくれないという思いも、うなずけるものがあります。

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