よく「バカと天才は紙一重」と言われますよね。
実際はバカというよりも、天才の言動は常人には理解できないことが多いので、こういう言い回しができたのでしょう。
芸術家に多いイメージですが、学者さんにも同タイプの人はおり、今回の主役もその一人。
昭和十六年(1941年)12月29日、博物学者かつ生物学者かつ民俗学者だった南方熊楠(みなかたくまぐす)が亡くなりました。
この時点で「どれが専門なんだよ!」とツッコミたくなりますが、そこが天才の天才たる所以。
熊楠は驚異的な記憶力を持っていたため、一見関係なさそうにも思える分野それぞれで実績を上げているのです。
9才で百科事典105冊をすべて暗記
どのくらいスゴかったのか、例を挙げてみましょう。
・9歳のとき『和漢三才図会』(当時の百科事典)105冊を全て暗記して書き写した
・13歳のとき、英語&日本語&漢語の本から読み取った知識を使って自分なりの教科書を書いた
・数十年前にたまたま同席した人の名前&出身地&系譜などを全て覚えていた
……もう、ケタが違いすぎてわけがわかりません。
そんな熊楠ですから、当然、今も昔も日本の最高学府・東大へ進学しています(当時は大学予備門)。
このときの同窓生のメンツがまた尋常じゃなく濃ゆいのが何とも。
夏目漱石や正岡子規といった文人から、後々帝国海軍の要となる秋山真之(さねゆき)まで、さまざまな意味で日本を代表する人材が揃っていました。
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バルチック艦隊を撃退した秋山真之(さねゆき)の策「本日晴朗ナレドモ波高シ」
大 ...
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天才的頭脳をもつ一方、カンシャク持ちでもあり
「人生は一度しかないのに、興味の持てないことに使う時間はない!」
熊楠は、そんな独自の理論を展開。
あまり熱心に大学へ通わず、入学二年後の中間試験で落第したのをキッカケにあっさり中退しています。
その代わり(?)アメリカの大学で自分の好きな動植物の観察や標本作成などには全力を注ぎました。
学校を出た後は大英博物館の蔵書を読み漁り、一時期は東洋図書の担当として勤めましたが、ムシャクシャして暴力事件を起こしてしまい、出入り禁止になったこともあります。
このときに限らず、熊楠は癇癪玉を爆発させると誰の手にも負えなくなることがしばしばあったようで。
毎度毎度その頭脳を惜しまれて周囲が仲介に走っていたようです。
天才的頭脳を持った、いわゆる「ギフテッド」な人の特徴の一つのような気がしますね。
日本人の2.5%が該当するそうなので、ギフテッドって結構存在します。
本稿をご覧いただいている方の中にも、同じような体験をお持ちの方もおられるかもしれません。
帰国後は一回り年下の奥さんをもらい、しっかり家庭を築いています。
長男が生まれたときは嬉しさのあまり、日記に
「子供見てたら夜が明けそうだったよ、HAHAHA」(※超訳)
と書いています。
子供の顔見て「顔がヘンテコだから奇妙丸な」なんて名付けた某戦国大名に比べればよっぽどマトモですね……ん? やっぱり織田信長もギフテッドな人なのかもしれませんね。
熊野の森を伐採するんじゃねぇ!
熊楠には天才・奇人の他に環境保護家という面もありました。
世は「西洋に追いつけ追い越せ!」の明治時代。
近代化・西欧化の名の下に、明治政府は行き過ぎた開発や文化の捏造を始めます。
足尾銅山事件や富岡製糸場など関東のものが有名ですが、もちろんそれだけではありませんでした。
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熊楠だけでなく、南方家が代々信仰してきた熊野神(三重や和歌山に広がる熊野古道の自然神)が宿るとされている森にまでその害悪が及びます。
政府の言い分は「国家のために神道を整理するので、神社を統合するよ!周りの木はもったいないから木材にするよ!(樹齢千年超えると高く売れるんだよねゲッヘッヘ)」というもの。オイオイ( )の中透けて見えてんぞ。
もちろん地元の人々は大反対です。
特に熊楠は、
「熊野の森を伐採すれば、そこに住まう菌類などの絶滅を招く」
として真っ向から政府に反対する運動を始めます。
昭和天皇に御前講義を行うほど有名に
当初、この運動はうまくいきませんでした。
が、柳田国男をはじめ、政府の内部にも「お国のためでも、やたら木を伐るのはマズくない?」と熊楠に賛同する人が現れ始めます。
そして10年に及ぶ活動の末、国会で「神社統合してもあんま意味ないじゃん」という決議が採択され、反対運動は実を結びました。
熊楠は、その後、積極的に各地の自然保護へ動いていきます。
それまでははっきり言ってプータローのような生活でしたが、この保護運動の資金を作るために初めて国内で本を出したほどです。
やればできるのになぜやらなかった、というかよく家計がもったものです。
ただでさえ天才の熊楠が59歳まで溜めに溜め込んだ知識をぎっちり詰め込んだ本ですから、その濃密さは随一でした。
こうしてさまざまな面で有名になった熊楠は、即位数年目の昭和天皇への御前講義もしています。
昭和天皇も生物学の研究者で、自然保護には大変関心をお持ちでした。
現在皇居には都心にもかかわらず森が生い茂っていますが、あのあたり(吹上御所)は明治~大正時代に庭園やゴルフ場が作られていたのを、昭和天皇が「もう使わないから、そのままにしておくように」とお命じになったからなのです。
時系列的には熊楠の講義のほうが先ですが、もしかするとこのときの話から何かしら影響をお受けになったのかもしれませんね。
キャラメルの空き箱に粘菌の標本を入れて…
とはいえ、ただ講義をするだけで終わらないのが熊楠。
本来は桐箱などに納めるはずの献上品を、なんとキャラメルの空き箱(by森○製菓)に入れて献上したのです。
現在からしても相当無礼ですが、当時は戦前。
神そのものと思われていた天皇に対し、木箱ですらないお菓子の空き箱で渡そうと考えたその発想はどこから来たのかと。
しかし元から奇人であることが知られていたためか、この件は特にお咎めなく済みました。
お付きの人いわく「ヘンな奴だって聞いてたから、何をしでかすかわからないとは思っていた」そうです。
昭和天皇も基本的に細かいことは気にしないお人柄だったようで、後々「あのキャラメル箱は忘れられない」と仰っていたとか。
そもそも、市販のキャラメルなんてご覧になったことなかったでしょうしね……。
ちなみに中身は粘菌の標本だったので、一応、講義の内容に沿ったものではありました。
どっちにしろ丁寧に取り扱わなきゃいけない気がするんですが、そこんとこどうなんでしょう。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
南方熊楠/wikipedia