明治二十三年(1890年)4月2日は、橿原神宮(かしはらじんぐう)が創建された日です。
全国的にも有名な神社の一つですし、奈良県では春日大社と並んで初詣に行く方が多い神社だとか。
奈良=平安京前に都があったところ=何か関係がある予感もしますね。
そもそも祭神が神武天皇なんですよね。
というわけで、今回は神武天皇と、この地のゆかりから簡単に振り返ってみましょう。
ニニギノミコトが天孫降臨で日向に降り立つ
皇室は神様の子孫=初代である神武天皇も神様の子孫、ということは何となくご存じの方が多いかと思います。
神様に対して「血筋」と言うのも微妙な感じですが、系譜としてはこんな感じです↓
天照大神
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アメノオシホミミ
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ニニギノミコト
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ホオリノミコト(=山幸彦)
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ウガヤフキアエズ
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神武天皇
これまた有名な話ですが、ニニギノミコトが天孫降臨で降り立ったのが日向(現・宮崎県)で、神武天皇までの世代はそこにいました。
神武天皇が「ご先祖様がこの地に降り立ってから長い時が過ぎたが、まだ日本の全てを統治していません。私は東にあるという美しい土地へ向かい、そこで天下を治めたいと思います」と言い、東征を始めたのがきっかけで、勢力圏が広がっていったのです。
ちなみに、天孫降臨から神武天皇が東征をやり始めるまで180万年(!)くらい経ったことになっています。
いくら神様だからって、のんびりしすぎかも……。
それとも、当時の宮崎は外に出たくなくなるくらいの極楽だったのでしょうか。
天照大神から剣や八咫烏が送られたり
こうして神武天皇がなんやかんやの末に奈良の地にたどり着き、宮殿を築いたのが橿原神宮の由来です。
ちなみに、東征の最中で女性の族長が出てきたり、「あの子うまく行ってないみたいだから、ちょっと助けてあげましょう」(超訳)と天照大神から剣や八咫烏が送られていたり、東征中の話は妙にリアルで面白いポイントがいくつもあります。
神様でも、子孫のことは可愛いんでしょうね。微笑ましい。
神話の時代では、神武天皇から急激に寿命が減っているのが興味深いところです。
ウガヤフキアエズ以前は数十万年単位だったのが、神武天皇は127歳で亡くなったとされています。
今のところ、人間の限界が120~125歳くらいといわれていますので、神武天皇の寿命も「絶対に不可能」とはいえない感じになってきましたね。
それにしてもケタが減りすぎですが……神様の一員でも、人界を統治すると気苦労で寿命が激減するんでしょうか。(´;ω;`)ブワッ

内拝殿が描かれた紀元二千六百年記念切手/wikipediaより引用
このように、橿原とその周辺は古代にはとても重要な土地でしたが、特に平安京ができてからはそういった意味合いも薄れ、歴史の表舞台にはなりませんでした。
現在の橿原市中部にある今井町が、戦国時代に自治都市となっていたくらいでしょうか。
幕府制作の陵がイケてない 新規で作り直そうず!
脚光を浴びたのは、幕末頃になってから。
「そういえばこの辺は神武天皇ゆかりの地じゃないか!」と再認識されました。
江戸時代中も、幕府によって
「神武天皇の陵(みささぎ・お墓のこと)が所在不明? ウチらが見つければ幕府の権威が高められる! 頑張って探そう!」(※イメージです)
という試みはされていたそうです。
が、結局、これだというものが見つからず、伝承や記録から「この辺にこのくらいの大きさの陵があっただろう」ということでそれっぽいものを作っています。
神武天皇の存在を信じるのであれば、橿原の地で暮らして亡くなったことも事実なわけで、どこにお墓があるかということは細かい話でしょうね。
そして明治時代になってから、
「幕府が作った陵、ショッボ! これじゃお上(明治天皇)の名にも傷がついてしまう! もっと立派に作り直そう!」
ということで、改めて神武天皇陵が作られました。
これが現在「神武天皇陵」と呼ばれているものです。
古い絵葉書に映された神武天皇畝傍山東北御陵/wikipediaより引用
それまでの間も周辺地域では神武天皇への信仰が篤く、政権が天皇に移ったというタイミングもあって、「ここに神武天皇をお祀りしたい」という声が上がりました。
これを明治天皇が容れ、橿原神宮が作られて今日に至ります。
ちなみに橿原市の市章も、神武天皇の弓に止まって敵を追い払った鳶を意匠化しており、神話由来のものです。日本の自治体のマークとしてはかなりカッコイイ部類じゃないかと思うのですが、いかがでしょう。
神話や信仰に意味があるか、というのは悪魔の証明に近い話ですが、文化的に良い面があるのなら、残していったほうがいいのではという気がします。
長月 七紀・記
【参考】
橿原神宮/wikipedia
橿原神宮(公式サイト)