現代日本のお師匠様ともいえる明治時代の「お雇い外国人」。
その中でも最も有名なのがこの方でしょう。
1877年(明治十年)4月16日、クラーク博士がアメリカへ帰国するため札幌を出立しました。
「少年よ、大志を抱け」という名言と、あの像があまりに有名ですが、そもそもどういった経緯で日本へやって来たのか。
帰国後、実は悲惨な末路を辿っていたというのも最近徐々に知られるようになった気もします。
では、その生涯を追ってみましょう。
もくじ
ドイツ留学から20代で教授へ出世
クラーク博士のフルネームは、ウィリアム・スミス・クラーク。
1826年にお医者さんの息子として生まれました。
しかし、ウィリアムにとっては医学よりも化学や動物学、植物学に惹かれたようで、その道に進みます。
大学を出た後はドイツに留学して博士号を取り、その優秀さによって20代のうちに教授へ出世。
とんでもないスピードでした。
しかも実力のみというのがまたすごい話です。
いつの頃からか、動物学と植物学にも興味を持ち始め、この二つの分野でも教鞭をとりました。どんだけー。

クラーク博士/wikipediaより引用
そのうち研究室だけでなくフィールドワークにも惹かれたのか。
農業学部を作ったこともあります。
残念ながらその学部は数年でポシャってしまったのですが、諦めずに「農業のための学校を作りたい」と気持ちを切り替えます。
新島襄の熱心な誘いに口説かれて
マサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校)の学長として就任。
そのタイミングで南北戦争が勃発すると、失意のウィリアムはここで運命的な出会いを果たします。
同学初めての日本人就学生・新島襄です。

新島襄/wikipediaより引用
同志社大学の創始者でもあり、後々大河ドラマ「八重の桜」の主人公だった八重の旦那さんになる人ですね。
彼はウィリアムの化学の講義に出席していて、その素晴らしさに感服。
「ぜひ、私の国の人にも教えてください!!!」(※イメージです)と熱心に依頼し、さらに彼のツテで明治政府にも働きかけ、そこからウィリアムのもとへ「ぜひ!!!」と熱烈なお誘いがやって来ました。
明治ひとケタの時代。
日本は西洋の技術や文化を求めて改革の真っ最中です。
「お雇い外国人」は何人いても足りない状況でした。
最初の教えは”Be gentleman”=「紳士であれ」
ウィリアムは、「なんか最近いろんな欧米人が褒めてる国だし、休暇中なら行ってもいいよ」(※イメージです)と訪日を決めました。
休みの期間に働くなんて、教職の鑑と申しましょうか……。
こうして、ウィリアムは少々変わったバカンス先として1876年7月、はるばる日本にやって来ます。
役職は、札幌農学校(現・北海道大学)の教頭でした。
教頭先生というとナンバー2のイメージですが、日本政府からはお墨付きをもらってます。
「他に校長がいるけど、あなたの好きな様にやってくださって構いません!」
そのためウィリアムの立場は、英語で「プレジデント(ここでは校長の意味)」と表記することになっていたとか。
理想の教育をしたかったウィリアムには良かったかもしれませんね。
教育方針は至ってシンプルなものでした。
彼はまず、生徒たちに向かって”Be gentleman”=「紳士であれ」と言います。
どこに出しても恥をかかないような人間、というところでしょうか。
あいまいといえばあいまいですが、こんな単純なことでも、人によって捉え方はずいぶん変わります。
つまり、最初の第一歩から「自分で考えて行動しろ」というメッセージだったわけです。
いくら生徒たちも選りすぐりのエリートが選ばれていたとはいえ、この時期の日本人が英語での教訓を正しく受け取れたのか、という問題はこの際置いておきましょう。
「日本男児」も「紳士」とある意味似通っているところはありますから、それなりの歳で常識を身に着けていれば、ウィリアムのお眼鏡にはかなったのではないでしょうか。
「少年よ、大志を抱け!」と同時に生徒たちとも文通
こうして「全編英語の講義で異国の技術を学ぶ」というハードモードで始まった札幌農学校。
キリスト教を半ば強制するような訓示など、現代の我々からすると「?」と思うものもありますが、やがてウィリアムと生徒たちの間も打ち解け、あっという間に時が過ぎて行きました。
そして出立の日。
例の
「少年よ、大志を抱け!」
という言葉を残して去った……といいたいところですが、この発言そのままに言ったかどうかは疑問があるそうで。まあ、言葉ってそんなものですよね。
「”少年よ~”は、生徒の記録した台詞(何故か漢語)の逆翻訳」とも言われ、まぁ、だいたい似たような意味のことを言っていたのでしょう。
こまけえこたあいいんだよ。
もう一つ、ウィリアムが生徒たちに残した発言があります。
「ときどきでいいから、私に手紙を書いてほしい」
というものです。
「たったそれだけ?」と思う方も多いでしょうが、この時代に欧米人が一時の生徒に過ぎない日本人に対して、「私が離れた後、どうしているか教えてくれ」と言うのは、相当のことです。
きっとウィリアムは、単なる仕事としてだけではなく、愛情を持って教鞭をとっていたのでしょう。
実際に、帰国してからも何人かの生徒とは頻繁に文通しています。
友人との会社経営に失敗し、破産、そして心臓病
こうしてウィリアムは帰国します。
ただ、残念なことに晩年の生活はあまり愉快なものではなかったようです。
マサチューセッツ農科大学を辞めて新しい大学を作ろうとして失敗。
教職を離れて知人と会社経営を始めたものの、これも失敗して破産してしまいます。
破産に関する裁判で揉めに揉め、さらに心臓病で健康と命まで失ってしまいました。
あわわわわ(`;ω;´)
彼の晩年を知ると「手紙を書いてくれ」という言葉がまるで帰国後の悲惨さを予見していたかのように思えてきます。
さまざまな苦難に見舞われる中、教え子からの手紙がウィリアムの癒やしになったことを願ってやみません。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
ウィリアム・スミス・クラーク/Wikipedia