明治・大正・昭和

竹鶴政孝(マッサン)とリタ、史実の生涯は?ウィスキー作りに命を賭した夫婦

古来よりスコットランドは、イングランドの厳しい支配により重税を課され、苦しんできました。
ウイスキー作りは、苦しい家計を救うための産業。
製造業者はコストカットを迫られ、その中で目を付けたのが価値の低いピートでした。

誰も見向きもしないピートで穀物を乾燥させたら、コストカットができるというわけです。

そうして作ったウイスキーからは、独特の香りがしました。

「スモーキーフレーバー」です。

コストカットの副産物であったスモーキーフレーバーは、スコッチウイスキーの大きな特徴となったのでした。

ピートを採取する人々/wikipediaより引用

このスモーキーフレーバーは、しかし、好みが分かれるものでもありました。

英国でも苦手とする人がいるぐらいで、日本人からは「焦げ臭い」と敬遠されがち。
それでも、なるべく本場に近づけたい竹鶴としては、この香りのこだわりを捨てるワケにはいきません。

ただ、現実的な問題もありまして。
いきなりウイスキー作りだけで会社を経営することもできません。

そこで竹鶴が目を付けたのが、余市のリンゴでした。

余市は旧会津藩士が入植してできた町で、日本で初めて西洋リンゴの栽培に成功した土地でした。

ニシン漁も盛んでしたが、これが不漁続き人手が余っている状況。
そんな余市で、まずリンゴ果汁を使った製品を作る。
そこから事業をスタートさせようとしたのです。

 

「大日本果汁株式会社」設立

1934年(昭和9年)。
竹鶴は「大日本果汁株式会社」を設立しました。

「リンゴの搾り汁を竹鶴さんのとこさ持っていけば、金さなっぺ!」
と、当時余市の人は思っていたそうです。
ニシンの不漁と、大火災からの復興に苦しむ人々にとって、とてもありがたいことでした。

酒造免許を取得する以前に、この会社が作っていたのは、

・リンゴジュース
・リンゴゼリー
・リンゴケチャップ

といったリンゴ加工品です。

しかし、当時はリンゴ果汁に含まれるペクチンによる凝固問題がありました。
凝固が発生すると濁ってしまい、腐っているのではないかとクレームがついてしまうのです。

竹鶴の妥協しない性格はリンゴ製品についても発揮されたのですが、そのこだわりが製品の見た目を悪くしてしまったのです。
なかなか売れず、竹鶴は苦悩します。

リンゴ加工に苦労しながら、竹鶴は並行して技術者育成、ポットスチル導入を進めていました。
アップルワイン、アップルブランデーの製造も始まり、次は念願の妥協しないウイスキーです。

昭和15年(1940年)、念願のウイスキー作りが、余市蒸留所で始まりました。

ただし、このころ日本は、出口の見えない戦争へと突き進んでいたのでした。

余市蒸留所のリタハウス/photo by 663highland wikipediaより引用

 

私の目と髪が黒かったら……

ウイスキーを作り始めたころから程なくして、日果の工場は海軍監督工場となり、配給品を作り始めました。

カウン家の人々は厳しい国際情勢を心配し、リタを呼び寄せようとしました。
しかし、リタは余市に残ることを選びます。

家族の懸念は、不運にも的中してしまいました。

「鬼畜米英」のイギリス出身であった彼女は、日本に帰化していたにもかかわらずスパイ扱いをされ、四六時中特高警察から尾行されたのです。

それだけではありません。
心ない人はリタの陰口をたたき、子供は石を投げました。
愛用のラジオすら、スパイの道具だとみなされ、調べられたほどです。

母国とのやりとりも、当然一切できなくなりました。

「私は日本人なのに、どうしてスパイ扱いをされるの? この目と髪を黒くして、鼻を低くしてしまいたい……」
泣きながらそう訴えるリタ。

「リタ、きみは間違っていないよ」
竹鶴は、そう言って抱きしめるしかできませんでした。

敵国人の娘とみなされたリマも、母親に反発したのでしょうか。
親子の仲も決定的に悪化してしまいます。

そして戦時中の1943年(昭和18年)。
政孝の甥である宮野威(たけし)が新たな養子として迎えられました。

広島高等専門学校発酵工学科出身の威は、後継者候補として迎え入れられたのです。

そうはいっても、威は軍事用アルコール作りや学徒動員に行くこととなり、北海道へ来るのはその2年後、終戦直後まで待たねばなりません。

 

三級酒の意地

余市は、戦時中、空襲を受けませんでした。

「ウイスキー工場があったからじゃないか?」
と、まことしやかに言われていたそうですが、真相は不明です。
ともあれ、戦争の最中にも竹鶴が作った原酒は守られ続けました。

戦後まもなくはまだまだ食料難が続きますが、竹鶴家は例外でした。

進駐軍の兵士たちは、イギリス出身のリタを見舞いにお土産を持ってやってくるのです。
酒も貴重で、ウイスキー1本と米1俵を交換することもできました。

しかし、ウイスキー作りではまたも竹鶴の頑固さが壁となってぶつかります。

余市蒸留所は例外中の例外で、終戦直後の日本では酒はろくなものがありません。
都市部の闇市では「カストリ酒」と呼ばれるあやしげな密造焼酎が飲まれているほど。

闇市でカストリ酒を飲む人々/Wikipediaより引用

そんな最中、じっくりと熟成された余市蒸留所のウイスキーは、むしろオーバースペック。
市場に出回っているのは、原酒がほとんど入っていないイミテーションウイスキーであったのです。

当時の酒税法では、「三級酒」の規定はこうでした。
【原酒混和率5〜0パーセント】
つまり一滴の原酒も入っていない、ただアルコールに色をつけたようなものであってもウイスキー扱いされたのです。

「わしゃ三級なんぞ出さんぞ!」
そう息巻く竹鶴ですが、経営陣は許そうとしません。

竹鶴はそれでもなんとかよい三級酒を造るため、上限の5パーセントまで原酒を使い、合成着色料ではなく専用のカラメルを用いた三級酒を造りました。他社よりもやや割高でした。

それでも香りは薄く、退色しやすい酒です。
悔し涙を流しつつ、竹鶴は三級酒を売るほかありませんでした。

 

ウイスキーブーム到来

戦後の焼け野原からなんとか復興した1950年代。
ついに竹鶴に大いなる追い風が吹くこととなります。

日本にかつてないほどのウイスキーブームが起きたのです。

そこで1952年(昭和27年)。
竹鶴は社名を「大日本果汁」から「ニッカウヰスキー」に変更、その波に全力で乗ります。

・ブラックニッカ
・丸びんニッキー(1962年販売終了)
・ハイニッカ

ブラックニッカのラベル/photo by 663highland Wikipediaより引用

ライバルとなったサントリーと競い合うようにして、ニッカのウヰスキーも軌道に乗り始めました。

ちなみに竹鶴自身が晩酌で好んで飲んでいたのは、庶民的な価格帯のハイニッカだそうです。
晩年まで一日一本は開けていたとか。

ニッカの社長なのだから、さぞや高級なものを飲んでいるのかと思えば、庶民的なウイスキーを愛していたのですね。
なんだかチキンラーメンをずっと食べていた安藤百福さんみたいですが、竹鶴としては
【一番売れるものを飲む】と語っていたそうです。

竹鶴は朝に一度しか歯を磨きませんでしたが、それでも虫歯が無かったのは、本人曰く、
「ウイスキーの水割りで消毒しているからじゃ」
だそうです。

 

最愛の妻・リタとの別れ

しかし、竹鶴とともに歩んだリタには、その成功を喜ぶだけの時間はあまり残されていませんでした。

ウイスキー事業が軌道に乗り始めた頃から、彼女は体調を崩し始めたのです。

1959年(昭和34年)、リタの妹ルーシーが来日した際、竹鶴は里帰りを勧めました。
が、リタは、飛行機が嫌いだからと断ります。
このころから、いよいよ体調悪化はひどくなっておりました。

そしてその2年後の1961年(昭和36年)1月、リタは帰らぬ人ととなってしまいます。
享年64。

愛妻の死から二日間、竹鶴は部屋に籠もりきりでした。

火葬場にも赴かず、遺骨を香炉に入れさせました。
その香炉とともに、墓ができるまで寝食をともにしております。

1年後、リタのプロテスタント式の墓ができあがりました。
そこにはリタだけではなく、竹鶴の名と刻まれていたのです。

そして、この一文。

“IN LOVING MEMORY OF LITA TAKETSURU”

竹鶴は、愛についてこう語っていました。
「愛というのは、相手の幸せを願うもの。お互いの幸せが何であるかを見極めて行動することが愛だと思う」

そうかと思えば、周囲にはこんなコトも言っていたそうです。
「国際結婚だけはするなよ」

むろん、言葉をそのまま受け取るのではなく、先に亡くなってしまったリタへの複雑な思いがあることを知らされます。

体があまり丈夫でないリタ。
日本という異国に来なければ、スコットランドで暮らしていれば、妹たちのように長生きできたかもしれない。

自分と結婚したことで、リタは寿命を縮めてしまったのではないだろうか――彼はそんな自責の念にかられていたのです。
その辛い気持ちがあればこそ、国際結婚を周囲には勧めなかったのでしょう。

最愛の妻の死。
それでも竹鶴は前を向き、歩き始めます。

翌年、竹鶴は一切の妥協のない、特別なウイスキーを作りました。
クリスタルの優美なシルエットの瓶につめられたそのウイスキーは、「スーパーニッカ」と名付けられました。

スーパーニッカ初号復刻版(2009-2015)/photo by Kentin wikipediaより引用

最愛の妻・リタへの思いを込めたものであり、リタの死という衝撃から竹鶴が立ち直るためにブレンドしたもので、大卒初任給が1万5千円程度の時代に、価格は3千円です。

それでも飲みやすく、味わいのある一本として人気を博しました。

 

ウイスキーとともに生きて

竹鶴は、走り続けました。

1963年(昭和38年)。
スコットランド留学時代からの夢であった「カフェ式連続式蒸溜機」を導入。

ニッカカフェグレーン/photo by Kentin wikipediaより引用

続く1969年(昭和44年)には「宮城峡蒸溜所」の竣工にとりかかります。

標高が高い余市が「ハイランド」(高地)に対して、宮城は「ローランド」(低地)と呼ばれまして。
スコットランドに由来する呼び方です。
※宮城は、余市よりも軽快な味わいが特徴とされます。

そして同年には、勲三等瑞宝章を受章。
北海道でも、1970年(昭和45年)に開発功労賞を受章すると、それから9年後の1979年(昭和54年)に死去。
享年85。
リタと同じ墓に埋葬されました。

竹鶴は、思い切り働き、そして遊ぶ人でした。

ウイスキー作りにかけては厳しいものの、社員思いの人物でもあります。
余暇を大切にし、彼自身も魚釣りや熊狩を楽しみました。

勤め人が仕事を終えて、晩酌を楽しんでこそ豊かな人生であると考えていた竹鶴。
晩年までウイスキーを飲み、薄い堅焼きせんべいをつまみにすることも多かったそうです。

ニッカウヰスキーのボトルに描かれた紋章は、一見、西洋由来に見えます。

紋章学に基づいたもので、そのモチーフは狛犬であり、日本由来のものです。

これぞまさしくニッカの真髄ではないでしょうか?
本場スコットランドの流儀で作りながら、日本の魂を吹き込まれたものなのです。

スコットランドと日本の融合――。

そこから連想させるのは、やはり竹鶴夫妻。
互いに愛し合い、尊重し、異なる国に生まれても一つであろうとしたマッサンとリタ。

ニッカのウイスキーには、国境を越えた思いが詰まっているのです。

今夜の皆さん一杯は、二人に捧げてみてはいかがでしょう。

文:小檜山青

【参考文献】
『父・マッサンの遺言』
『竹鶴とリタの夢』千石涼太郎
『ジャパニーズウイスキー (とんぼの本)』
『ブレンデッドウィスキー大全』土屋守

 



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