日本と清が朝鮮を狙うところをロシアが横から……という著名な風刺画/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日清戦争がわかる! 舞台は朝鮮半島―敵国の清は指揮官がポンコツだった?

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しかも黄色=皇帝の色という徹底ぶり。
「中華思想を捨てるつもりなんて、これっぽっちもありません!」と大声で叫んでいるも同然ですね。

その強気、アヘン戦争の前に出しておけばよかったと思うのですが……まあ、イギリス国旗は丸のみできないというか、刺々しくて喉や食道に突き刺さりそうですが。

北洋艦隊旗 photo by Sodacan /wikipediaより引用

ここでまたややこしくなるのが、当時清がやっていた別の戦争である清仏戦争です。

超グダグダな清仏戦争~フランスと清が得たもの失ったもの

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平たくいうと「ベトナムを巡る清とフランスの戦い」でして、清は海戦で壊滅しており、早急な対応が必要でした。
そのため、朝鮮に送っていた清軍のうち1,500人を引き揚げさせ、いざというときベトナムへ送れるように備えたのです。

清の実質的な君主・西太后としては
「北洋艦隊をベトナムへ行かせなさい!」
と言っていたのですが、当の北洋艦隊のトップ・李鴻章が「ウチの艦隊は対日軍なんで、あんな遠いところまで出せません」と断っており、その代わりに朝鮮駐留軍を半分持ってきたというわけです。

 

金玉均がクーデターを図って日本へ出兵を要請

これを見た金玉均は、日本へ
「今なら清軍が減っていますから、クーデターを起こせます! 協力してください!」
と連絡。

しかし日本は渋い顔をします。
「清軍はまだ1,500もいるし、もしかしたら清仏戦争もスグに終わるかもしれない。
李鴻章もどうするつもりだかよくわからない。北洋艦隊だってすぐに朝鮮まで来られる。
こっちだって余裕ないのに、今、朝鮮に手を出して大損するわけにもいかないワケで……」

これが1884年の出来事です。
西南戦争からわずか7年。日本は憲法(大日本帝国憲法)すらできていなかった頃の話でした。
そりゃ、他国に手を出してる場合じゃありません。

しかし、朝鮮にいた日本の担当者がテキトーな返事をしてしまい、藁にもすがる思いの金玉均は見切り発車のクーデターを敢行してしまうのです。

金玉均は、一時、閔妃一派の締め出しに成功したものの、清の袁世凱が軍を派遣したため、たった3日で失敗。命からがら日本へ亡命します。
せめて高宗を連れていければ政治的な勝ち目もありましたが、それもできずに終わっています。

このクーデターを【甲申事変(政変)】といいます。

ちなみに金玉均は、甲申事変の翌年に李鴻章との交渉のため、清に渡ったとき暗殺されてしまいました。
妻子は後に、偶然、日本に保護されたといいます。

なお彼は、朝鮮を私物化したいとかではなく、清・日本との協調体制を整えて欧米に対抗したい――という意欲を持っていたとされ、残念な結果となってしまいました。

 

天津条約を結び、日清による朝鮮不介入を同意したが……

この後しばらく、日清両国は静かな政争を重ねます。
とはいっても、実質的には互いに軍備のための時間を稼ぐ目的だったでしょう。

1885年には、日本と清の間で甲申事変の事後処理として【天津条約】を結びます。
ざっくりいうと「今後、日本も清も朝鮮半島に対して軍事的な介入はしない。もしやむを得ず介入しなければならない場合は、互いに相談すること」という内容です。

しかし、清は軍拡を進めて日本を威圧することに腐心しました。
だから、なぜそのやる気をアヘン戦争の前に……(ry。

なけなしのお金を使って最新式の戦艦「定遠」「鎮遠」をドイツから購入し、北洋艦隊に配置。
さらに1886年に、これらの船を長崎まで補給名目で見せびらかしに来ています。

清の戦艦「定遠」/wikipediaより引用

ついでと言わんばかりに、長崎の町でこれらの船の乗員たちが暴行事件まで起こしました。

ここでコトが大きくなれば、自慢の大砲をぶっ放されて長崎が町ごと崩壊してしまうかもしれない。
また、清の目的もこの時点では開戦ではなく威圧のため、イギリス人及びフランス人の弁護士を間に挟んで和解しました。

 

決して日本から一方的に仕掛けたわけじゃない

実はその後も、北洋艦隊はたびたび長崎にやってきます。

日本史の授業ではそこまで習わないため、日清戦争も日本が仕掛けていった――そんな単純な印象も拭えないのですが、決して一方的ではありません。

北洋艦隊としても、威圧と念押しが目的だったのでしょう。
しかしここでまた、西太后の行動が裏目に出てしまいます。

当時、西太后は自分の還暦祝いなどに多額の国費をムダ遣いしており、そのせいで北洋艦隊のメンテナンスができないほどになっていたのです。
その状態でも長崎に来た上、「清はまだまだスゴイんだぞ^^」と主張するために日本の要人を戦艦「定遠」に招き、あまつさえ船内の見学までさせました。

後に自沈した「定遠」/wikipediaより引用

そのせいで定遠のボロボロっぷりどころか、構造や船員の練度の低さまで日本にバレてしまいます。
なぜ清側の人間は誰も止めなかったんですかね……。
遣隋使の頃から「日本人は、一度興味を持ったら隅々まで知りたがるし、多少の手間は惜しまない民族」だというのに、それをすっかり忘れていたようです。
まあ、その頃の中国と清じゃ民族が違うんですけれども。

このときの日本としては
「いずれ清と戦争することになりそうだけど、今のままじゃ全く勝ち目がない。どこからでもいい、とっかかりになるポイントを探さなければ!」
と思っていたところでしたから、定遠見学はまたとない機会だったでしょう。

 

明治天皇が皇室予算を軍備に提供!?

情報が集まれば、次は具体的な軍備が必要になってきます。

しかし、日本もお金が足りません。
繰り返しになりますが、この頃の日本にはまだ憲法も議会もできていないのです。

不平士族の反乱の鎮圧に人やお金を使っていましたし、産業もまだ拡大できていない状態ですから、とにかくお財布事情は厳しい。

そこで明治天皇が「皇室予算(内廷費)のうち30万円を軍備に使うように」と命じます。
明治天皇の日頃の言動からすると、これは「即座に開戦せよ」という意味ではなく、「清にナメられないように軍を整えよ」という意味だったのでしょう。

これに政府はもちろん、当時の国民皆がビックリ。

「お上にお金を出させるなんて畏れ多い! 我々も少しずつお金を集めようではないか!」
と奮い立ち、合計200万円が国民から集まったといいます。

もちろんこれは現在の貨幣価値ではありません(公務員の初任給が50円だった頃の話です)。

こうして230万円を軍備に使えるようになった日本は、どうにか戦う準備はできるように。
目玉だった新艦の建造は日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争で活きることになります。

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甲午農民戦争が起きて清が派兵

こうして甲申事変から10年経った1894年。

日清戦争が始まります。
といってもスグにドンパチやらかしたワケではなく、あるキッカケがありまして。それは日本でも清でもなく、朝鮮自身でした。

この10年間、私腹を肥やし続けた閔妃とその腹黒い親族たちに、ついに朝鮮の一般民衆がブチ切れ【甲午農民戦争】という内乱を起こしたのです。

相変わらず閔妃たちには国内の乱を収める力がないので、今回も清に泣きつきました。
これに対し、袁世凱が兵を派遣。

しかしこれは、天津条約に違反する行為ですから、日本は当然クレームを入れます。
清の言い分は「清の皇帝がいいって言ってるんだからいいの!」という屁理屈でした。

おそらくや明治政府も、清がきちんと条約を守るとは思っていなかったでしょう。
日頃がアレですし、「条約を破れば、国際的に信用を失う」という考えが、当時の清にはカケラも見えませんでしたから。

逆に、条約に基づいていれば国際社会を味方につけることができるわけです。

そのうち甲午農民戦争が収まってしまったため、最悪の事態は避けられたかに見えました。
しかし、既に日清両軍とも朝鮮半島で戦闘ができる状態ですから、そう簡単には退けません。

 

ついに日清戦争の開戦 清は司令官が逃げまくり

そこで日本軍は漢城(現・ソウル)を制圧し、閔妃を追い出して大院君に迫ります。
「私達が清軍を追い払いますので、もう一度あなた方自身で自分の国を守りませんか」

大院君も閔妃にはさんざん手を焼いていましたし、自分の国も保ちたいので
「日本がウチの領土を盗らないなら」
という条件で了承します。

こうして半島での拠点を得た日本軍は、清軍の後続がやってくる前に動き出しました。

まずは清から朝鮮へやってくる補給船を探し、【豊島沖海戦】で撃破。
このとき、清の北洋艦隊指揮官である方伯謙(ほうはくけん)は、恥も外聞もなく逃げ帰りました。
この時の言い訳が「艦隊温存のため」なので、後年の日本軍のことを考えると手放しでは笑えないところです。

ちなみに、このとき撃沈した船はイギリス船でした。
本来ならイギリスから日本へ抗議をするところですが、日本は最後通牒をした上での行動だったので、
国際社会からは
「なんだ、日本はあらかじめ警告していたんじゃないか。
それなら、そもそも条約を破った清が悪いよね」
とみなされ、責任を追及されることはありませんでした。

この辺は、天津条約にいかにも清が守らなさそうな一文をねじ込んでいた明治政府の作戦勝ちといえるでしょう。

また、陸戦でも清軍の指揮官・葉志超(ようしちょう)が逃げまくり、日本の勝利となりました。

 

平壌攻略で万事休す!と思ったら清が白旗で( ゚д゚)ポカーン

ただし、日本軍も連戦連勝だったわけではありません。

朝鮮半島から中国本土に進もうとすれば、平壌を通ることになります。
ここには、ガトリング砲つきの大要塞が築かれていました。
しかも日本軍の装備や兵数は要塞側に及ばず、食料・弾薬も一両日分しかなかったのです。

しかし、戦場では何が起きるかわからないもの。
増え続ける死傷者を憂いた日本軍の間で「万事休す」と思われたその時、圧倒的有利を保っていたはずの清軍がなぜか白旗を掲げるのです。

現代の我々が聞いてもわけがわかりませんが、たぶん当時の日本軍も「( ゚д゚)ポカーン」状態になったことでしょう。

実は、平壌要塞の指揮官が、逃走を繰り返した指揮官・葉志超でした。
彼はあいかわらず自分の命を惜しんでいました。
さらに、徹底抗戦派の左宝貴という人が戦死したため、ここでもとっとと逃げるために白旗を挙げさせたのです。

もはや、何のために軍人やってるのかわかりません。
いくら清が人材不足とはいえ、葉志超よりマシな人はいたと思うのですが……。

これはもちろん、清のほうでも想定外。
長期戦を見込んで平壌要塞へ増援を送るために船を出していたのですが、これが日本海軍に見つかって【黄海海戦】が起きます。

この中の「済遠」という船に乗っていたのが、豊島沖海戦で逃げた方伯謙でした。
ぶっちゃけ彼らがいなければ、日本も相当ヤバかったハズです。
なんせ方伯謙ときたら、このときも艦隊からただ一隻逃げ帰ろうとして、清海軍の足並みを乱すのです。

清海軍にとって頼りとなるのは北洋艦隊自慢の戦艦「定遠」と「鎮遠」。
上記の通り、メンテナンスもできない状態で無理やり動かしていたので、まるでギャグマンガみたいなことが起きてしまいます。

それが
「自分の主砲を撃った衝撃で艦橋が壊れる」
というのもの。
しかも、そのせいで指揮官の丁汝昌が負傷し、北洋艦隊はどうにもならない状態に陥りました。

こうして北洋艦隊の船はあれよあれよという間に壊滅し、黄海海戦も日本の勝利に終わります。

小国の日本が大国の清を破る様子を描いた風刺画/wikipediaより引用

 

下関条約が結ばれ朝鮮は独立国になる

まとめると、日清戦争は「清の中身がダメダメだったせいで日本の圧勝に見える」戦争だったといえるでしょう。
もしも清にまともな指揮官がいたら、全く違った結果になっていたはずです。

しかし、清では「いろいろあったけど、偉大な我が国がちっぽけな日本なんかに負けるわけないじゃん。幻でも見たんじゃないの?」みたいな態度を取り続けました。

一応、和平交渉のために、北洋艦隊の創設者でもある李鴻章が日本にやってきます。
が、ここで日本人の暴漢が李鴻章を襲撃、重症を負わせるというとんでもない事件が起きました。
そのせいで日本は、条約内容をいくらか譲歩せざるを得なくなります。

それでも、この講和条約である【下関条約】では、日本の狙いは概ね達成されました。

清に対して、改めて「朝鮮は独立国である」と(少なくとも書面上は)認めさせ、賠償金も清の国家予算2年半分もぎとっています。
さらに遼東半島や台湾などを割譲させ、軍費の回収や増強に充てました。

ただし、この最後の部分が、日露戦争のキッカケのひとつにもなります。

 

ロシアが三国干渉で恫喝してきた

ロシアからみて、不凍港を得るために進出したい場所の一つが朝鮮半島です。
そして、そのためにはどうにか遼東半島は確保しておきたいポイントでした。そこを日本に取られたので気に食わないわけです。

とはいえ、自分が参加してもいない戦争の戦果にケチをつけるのは難しいことです。本来は。
そこでロシアは同盟相手であるフランスと、とりあえず今はケンカしたくないドイツを誘い、日本に対して【三国干渉】をやらかすのです。

「遼東半島まで取るのはやりすぎでしょ。返してあげたら?
(そこはウチが目をつけてたところだから、お前なんかにやらないよ。イヤって言うなら俺達がまとめて相手になってやるぜ)」

平たく言えば恫喝でしょう。
日本からすると、清相手でも幸運に幸運が重なってやっと勝てたのに、すぐにロシアを相手にすることは到底不可能。
そのため、せっかく手に入れた遼東半島を手放さざるを得なくなります。

何とか国際社会に認められ始めた日本。
ボロボロでもまだ残る清。
いよいよ朝鮮半島へ食指を伸ばし始めたロシア。
そして東アジアでも美味しいところをキープしたいイギリスほか欧米諸国。

これらの思惑がこの後10年間絡み合い、日露戦争へ続いていきます。

 

総まとめ

とまぁ、かなり入り組んだ日清戦争。その流れを30行でマトメてみました。

3行ではなく30行……なんで、マトまってない?
サーセン><;

①日本が、清と朝鮮へ西洋化・近代化を打診
②開国したくない両国は打診を無視
③しかし朝鮮でも開化派が出て来る
④日本でも征韓論で政府分裂(不平士族の反乱へ)
⑤江華島事件を機に朝鮮で開化派の勢力が増す
⑥ソウルで壬午の変が勃発
⑦自国民保護のため日本軍がソウルに駐屯
⑧朝鮮では攘夷・鎖国派の大院君復活を望む声が高まる
⑨閔妃の夫・高宗は改革を進める→金玉均が近代化軍の設置
⑩旧式軍がキレて壬午軍乱が勃発
⑪大院君が復権して閔妃を追い出す
⑫閔妃が清へ泣きつき、袁世凱が3,000の軍で出兵
⑬ただし清は、清仏戦争の真っ最中で1,500の兵を戻す
⑭兵が半数いなくなり、金玉均が日本に出兵を要請
⑮実は日本もそれどころじゃない(大日本帝国憲法だって未成立)
⑯金玉均が待ちきれずに甲申事変を起こす→翌年暗殺される
⑰1885年に天津条約→互いに朝鮮へ介入しない
⑱しかし清は北洋艦隊を使って日本へ威嚇
⑲北洋艦隊の戦艦「定遠」の中身を見せる余裕っぷり
⑳その船の中が意外にもボロボロ(メンテナンスの余裕なし)
㉑朝鮮で「甲午農民戦争」が勃発し、清が派兵
㉒天津条約に基づき日本がストップをかける
㉓「甲午農民戦争」は収束するも日清両軍が戦闘できる状態で待機
㉔日本軍がソウルを制圧し、日清戦争始まる
㉕清は指揮官がダメダメ
㉖ただし日本側も連戦連勝ではなく平壌攻略から先へ進めず
㉗いよいよ負けか!?というところでナゼか清が白旗
㉘黄海海戦でも日本側の勝利
㉙下関条約が結ばれる
㉚ロシアが三国干渉で日本を恫喝

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「日清戦争」「日清講和条約」「三国干渉」
『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(→amazon
長崎事件/wikipedia

 



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