三浦環

三浦環/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

世界を魅了したスター歌手・三浦環とは?朝ドラ『エール』双浦環

2020年朝ドラ『エール』に登場した双浦環――。

教会で歌うその姿に、幼い関内音は夢中になりました。

音は憧れを抱き、歌手を目指すようになります。

そんな彼女をひきつけた双浦環のモデル「三浦環」は、類まれなる美声の持ち主であり、実は欧米でも絶賛された世界的スターなのです。

 

はたして三浦環とは一体どんな人物だったのか。

昭和21年(1946年)5月26日は彼女の命日。その生涯を振り返ってみましょう。

 

幼き頃より美声を持つ三浦環

明治17年(1884年)2月22日、東京、大雪の日のこと。柴田家に女児が生まれました。

男児二人を失っていた柴田家で、その女児は、男児のような「環」と名付けられました。

父・猛甫(本名・熊太郎/Wikipediaでは孟甫ですが本項ではこちらの表記を用います)は、造り酒屋の長男でした。

妻・登波と上京すると、明治法律学校(現・明治大学)で学び、かくして日本初の公証人となったのです。

彼の母(環の祖母)は美声で知られ「鶯小町」と呼ばれていたこともあったとか。環自身は、この祖母に似て美声だったのだろうと振り返っています。

両親から溺愛された環は、3歳で藤間流の日本舞踊を習い始めました。

6歳で「君が代」を歌ったところ、幼稚園の先生があまりの美声に驚いたとのこと。

それから音楽に目覚めたのか。環は、琴、長唄を習うことになりました。こうした幼少期からの経験が、のちに生きることとなります。

明治23年(1890年)に小学校に入ってからも、習い事は続けました。

 

声楽家になって母を喜ばせたい!

明治30年(1897年)、成長した環は当時もっともハイカラであった東京女学館に入学しました。

虎ノ門にあるこの女学校は、派手好みの父が選んだものです。

しかし、その父のせいで環は暗い家庭生活を送ることとなります。父の女遊びについていけない母が、ついに離縁を選んだのです。

妾との間には男子が5人も生まれており、彼女は辛い立場に追い込まれていました。

環が2年生になった時のことでした。

鬱屈した気分で新学期を迎えると、新任の音楽教師・吉沢チカ子(のちの三浦チカ)が環の声に驚きました。

「なんて綺麗な声でしょう。あなたには生まれつきの音楽の才能がある。上野の音楽学校でしっかり勉強なさい。きっと日本一の声楽家になれますよ」

この吉沢先生は、上野の音楽学校を出たばかりで人気のある教師でした。

「君が代」以来、褒め言葉には慣れきっていて、自分の声は美しいという自覚があった環です。

それでも今回は心に響くものがありました。

単に褒め言葉に浮かれたのではありません。

娘が声楽家になれば、沈み込んだ母も晴れやかな気分になれるだろう。母のためにも、声楽家になりたい――そう決意を固めたのです。

しかし、ここで父が猛反対します。

ハイカラな女学校に入れたのも、お嫁に行くまでのもの。舞踊や長唄も、嫁入り資格としても習うもの。

新札の顔となる津田梅子が聞いたらムッとしそうな、そんな教育観に染まっていたのでした。

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しかし、これが当時の一般的な感覚ではあります。

 

「あやまちが起こる前に養子に入れ」

困り果てた環が吉沢先生に相談すると、彼女は父を説得してくれました。

類まれな才能があると聞いていくうちに、進歩的な父も納得します。

残るは叔母でした。

自転車を颯爽と乗りこなす環。ハイカラな虎ノ門に通う姪に間違いが起きたら困ると、父の妹である叔母がやきもきしていたのです。

「あやまちが起こる前に養子に入れ」と条件をつきつけてきました。

環の望みは音楽です。それさえ叶えば、結婚くらい、どうということはありません。藤井善一という12歳上の陸軍三等軍医正の妻となり、17歳で上野の音楽学校に入ったのでした。

明治33年(1900年)、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に通学することとなった環は、当時まだまだ珍しく高級品であった自転車を習います。

颯爽と自転車で通学する環は「自転車美人」として注目の的となったのでした。

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明治36年(1903年)、母校の奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でエウリディーチェ役を歌いました。

半年にわたる稽古の成果が実り、成功をおさめたのでした。

 

夫の単身赴任を機に離婚

明治37年(1904年)の卒業後は、研究科に入って後進の指導にあたり、助教授にまでなります。

教え子には山田耕筰らもおりました。

家でも音楽に指導にあたると、どうしても家事に身が入らなくなります。

夫は妻がよき家庭人として自分を支えるものだと思っていました。夫婦の仲は険悪ではないものの、どうしてもすれちがいが出てきます。

決定打となったのは、明治40年(1907年)に夫が仙台転勤となったことでした。

環は、一生を音楽に捧げると誓っていました。

母のため、そしてこれからの日本のためにも、音楽を極めたい。

夫にとってのよき妻であることは他の女にもできるけれど、音楽は私しかできない。

そう悩み、夫に単身赴任してくれと頼み込んだのでした。

すると夫は、それならば離縁だと告げるのです。あまりのことに環は泣き崩れました。

離婚となると、目立っていた環のことを新聞がおもしろおかしく書きたてます。同時に、結婚の申し込みも殺到するようになりました。

そんな中、三浦政太郎という男からの手紙がありました。彼は医学を学び、医師を目指していました。

その強烈さに、環は驚かされます。

学生時代から片想いだった。

結婚のことを知ったとき、絶望した。

華厳の滝に飛び降り自殺した藤村操の遺書のことが頭をよぎった。

そんなどん底の中で彼女の離婚を知り、いてもたまらず手紙を書いたとか。

このままでは死ぬかもしれないと匂わせる。しかも何通も手紙が届く。

環はそうなってはたまったものではないと、当たり障りのない返事をしました。すると三浦政太郎は生来のプラス思考人間なのか。わざわざ彼女へ会いに来るようになったのです。

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