紫式部/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

歴史的に日本は女子教育に熱心だった~その風潮が崩れたのは何時から?

世の中には「いくらあっても困らない」ものが二つあります。

ひとつはもちろんお金で、もうひとつは何だと思われますか?

人それぞれ価値観が違うので絶対的な答えはないかもしれませんが、個人的には「知識」だと思います。

ネットや図書館を自由に使える現代に対して、その機会がない時代には、もっと貴重なものだったでしょう。

本日はそんな感じのお話です。

1920年(大正九年)9月24日は、東京帝国大学が女子聴講生入学を許可した日です。

聴講生というのは正式な学生ではなく、文字通り「講義を聞ける人」のことです。

この時代だと、ものすごく乱暴な言い方をすれば「門前の小僧」みたいな感じですかね。さすがに教室には入ってたと思いますが。

てなわけで、本日は女性と教養&高等教育のお話です。

 

高貴な女性の周囲では独自の教育文化が

そもそも日本では、古来よりある程度女性の地位が認められていました。

女性天皇のうち6人(重祚しているので8代)は古代ですし、平安時代にも女院号を与えられた女性の意見はかなり重要とされています。

清少納言紫式部といった教養ある女性の存在も有名ですし、その主である高貴な女性のまわりでは独自の社会が築かれておりました。

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古代の高等教育機関については基本的に男性のみでしたが、医学と音楽については何故か女性も認められています。

後者は儀式や行事で女性も奏者・演者になることからきているようです。

武家政権になった鎌倉時代にも、数としては多くないものの、女性領主の存在は認められています。

戦国時代から江戸時代の初めにかけても、武将や大名の妻には「化粧料」という名の領地=収入を得ている人もいたほどです。

また、江戸時代中もかの大奥を始めとして、働けるだけの教養を持った女性はたくさんいたわけです。

 

江戸時代に入っても庶民での教養レベルは高かった!?

庶民についてはあまり記録がないのではっきりしませんが、この辺を考えると、「地位があるのに権利も教養もない」ということはあまりなかったと見てもいいでしょう。

江戸時代には寺子屋もできていますし、庶民向けのファッション誌のようなものや貸本(レンタルショップ)などもあったようですから、庶民でもそれだけの教養はあったはずですしね。

狂歌なども、洒落っ気を出すためには単に【五・七・五】にする以外に教養が必要となります。

寺子屋の絵画には女性教師も描かれるほど/wikipediaより引用

余談ですが、トーハクこと東京国立博物館には江戸時代の着物や櫛、かんざしなどが展示されている部屋があるので、興味のある方はぜひどうぞ。

当時の庶民が身近に感じられます。

ここに限らず、博物館は何ヶ月かに一度展示品を入れ替えるので、たまに行くと違うものが見られたりします。

トーハクには同じ着物でも能・狂言の衣装もあり、他の史料も見れるとなれば、本館(入館料620円)だけでも楽しめますよ。

閑話休題。

そんなわけで、江戸時代までは身分の高い人や一部の学者さんを除いて、男女の教養はそこそこ平均化されていたと考えてもいいでしょう。
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