志賀重昂

志賀重昂(左は結婚写真)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

志賀重昂と「和魂洋才」~地理学者が示した柔軟な国粋主義とは?

昭和二年(1927年)4月6日は、地理学者の志賀重昂(しげたか)が亡くなった日です。

例によって「誰それ?」という声が聞こえてきそうですので、さっそく生涯を見ていきましょう。

 

大学予備門(東大の前身)や札幌農学校(北大の前身)

志賀は、愛知県岡崎市で儒学者の父の元に生まれました。

5歳で父に死に別れ、しばらくの間母方の実家で育ちます。

長じるに従って攻玉社(現・攻玉社中学校及び高等学校)や大学予備門(東大の前身)を、札幌農学校(北海道大学の前身)などで学んでいたそうですので、幼い頃から頭が良かったのでしょう。

当時の北海道は屯田兵がいた頃ですから、志賀は農地開拓や北方防備の必要性などを間近に感じながら、学問を修めていったと思われます。

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そんな中で周辺の地形や気候にも強く興味を惹かれたのか、在籍中に北海道や青森の各所を巡っていたとか。

やがて札幌農学校を卒業した志賀は、長野県で教鞭をとるようになりました……が、お偉いさんと酒の席で揉めてしまい、教師を辞めて東京へやってきます。

そしてどういう縁があったものか。海軍兵学校の練習艦(士官教育のために使われる船)・筑波に乗って、日本周辺の島を見て回ることになりました。

当時、朝鮮半島の南にある巨文島という島をイギリスが占領しており、日本としても「明日は我が身か」と脅威を感じていたため、周辺の島の調査が必要とされていたのです。

その流れで、地理知識のある志賀に声がかかったものと思われます。

 

「島が危ない!」地政学を世に知らしめる

志賀は対馬などの日本近海から、フィジー・ハワイなど太平洋の島々、果てはオーストラリアやニュージーランドなどを見て回りました。

欧米列強の脅威を文字通り肌で感じた志賀は『南洋時事』という本を出版。

「日本の周辺の島が欧米に狙われててやべーよ!」(超訳)と広く知らせ、これにより東京地学協会(地理・地球科学などの学会)の終身名誉会員になっています。

その後はまた地理の先生に戻り、国粋主義を掲げて「日本人」という雑誌を創刊するなど、政治的な活動も始めたのです。

国粋主義というと戦中の偏狭な印象もありますが、志賀の場合は違いました。

彼は「日本サイコー!! 他国なんてpgr」(超訳)ではなく、「外国にもいいところはあるけど、日本のいいところを忘れないようにしようぜ」&「西洋の文物を日本に合うように作り変えてから取り入れていこう」(意訳)と呼びかけたのです。

和魂洋才というやつですね。

ときの総理大臣・伊藤博文が日本を卑下していたのとは対照的です。

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志賀はこの後、農商務省(農林水産省と経済産業省の前身)に勤めたこともあるのですが、上記のような考えを持っていたからか、たびたびお偉いさんと衝突したため、一定以上の地位になることはありませんでした。

一時期は内閣に入り、南鳥島(日本の最東端の島。上から見ると三角形)の領有に動くなど、かなり重要な仕事もしていたのですが。

立場はどうあれ、地理学の見識は評価され続けたようで、日清戦争後の中国に行ったり、日露戦争を観戦しています。

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特に日露戦争の際は外交顧問・通訳という役を任され、乃木希典とも知り合っています。

乃木と知遇を得たことが幸いしてか、その後も樺太や沖縄などの視察にも行っていたようです。

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それにしても、かなり活動的な方ですよね。

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