金栗四三

パリ五輪後(右)とアントワープ五輪時の金栗四三(左の写真の後列右・左手前は嘉納治五郎)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~92年の生涯をスッキリ解説

明治24年(1891年)8月20日。

大河ドラマ『いだてん』のモデルとなる金栗四三が熊本県玉名郡春富村(現・和水町)にて誕生しました。

男4人、女4人の8人兄弟で7番目。

父の信彦は、胃腸が弱い虚弱体質で、金栗の誕生前に、家業だった酒造業を辞めております。

実は金栗本人も、父同様に幼い頃は虚弱体質でして、彼の夜泣きに家族は手を焼いていたと言います。

そんな金栗も、5才頃には人並みに健康な子供になり、祖母に甘えるやんちゃ坊主になっていました。

川で魚を釣り、田んぼで泥鰌(どじょう)をすくう日々。

元気いっぱいで気のいい少年である反面、負けん気も強く、もしも悪事に興味を持ったらいけない。

と、人の好い父母やきょうだいに見守られ、のびのびと育ちました。

いわゆる天才アスリートの歴史となりますと、幼少期からそれを匂わせるエピソードがあります。

では、小学生の頃の金栗四三はどうか。

現代から振り返って、まず『時代だなぁ』と感じられるのは、冬は「藁草履(わらぞうり)」、夏は裸足で小学校へ通っていたことでしょう。

元が虚弱体質だったことで、運動にはまるで自信のない金栗。

彼は、片道6キロ、往復12キロの道のりを毎日走り続けました。

小学生にとってはかなりの距離です。

はじめは苦痛でしかなかった通学路も、いざ走り出すと誰よりも早く、学友たちは誰も彼に追いつけなくなります。

幼いころから金栗はあることに気づいておりました。

「ハーハ−」と呼吸すると苦しいけれど、吸うとき2回、吐くとき2回とリズムをとると、楽になる――。

いだてん小僧の才能は、こうして静かに育まれていくのでした。

 

海軍兵学校の夢やぶれて東京へ

小学校を卒業した金栗は、学友2人と共に、地区内では初となる旧制玉名中学への進学者となりました。

その頃から金栗は生真面目な努力家で、特待生になるほど成績優秀。

反面、意外にもスポーツ万能ではなく、例えば体操や剣道は苦手でした。

今の時代でも、脚が速くても球技が苦手という方はおりますよね。そんなタイプかもしれません。

また中学時代は、食べ物の好き嫌いについて叱られたことがきっかけで、慣れない食べ物や嫌いな食事も我慢するよう心がけるようになりました。

これはのちに海外遠征する際、役立つこととなります。

旧制中学の卒業後は、海軍兵学校を目指しました。

が、結膜炎のせいで身体検査に引っかかって不合格に。

失意の金栗が目を向けたのは、中国大陸です。

日清戦争日露戦争に勝利して勢いが上向きだった日本。

当時の若者にとって、中国大陸で雄飛を夢見ることは特別変わったことではありません。

大陸留学生の資格を得るため、金栗は“受験に慣れておこう”と東京高等師範学校(現・筑波大学)も受けてみます。

と、ここで無事に合格。

次はいよいよ大陸だ!と意気込んだところで、兄から諭されます。

「せっかくだから師範学校で立派な教師を目指したらどうだ」

こうした経緯を経て、金栗は明治43年(1910年)、東京高等師範学校へ入学するのでした。

東京文理科大学附置時代の東京高等師範学校/wikipediaより引用

 

長距離走大会で嘉納に褒め称えられる

東京高等師範学校では、毎年春と秋、長距離走大会がありました。

それぞれ3里(約12キロ)、6里(約24キロ)を走るレースです。

入学したばかりの金栗は春は25位でしたが、これはスタート前にトイレへ行きたくなったのが原因のようで、秋は一気に3位へと飛躍します。

普通の学校でしたら、3位だって別に大騒ぎするほどの記録でもないでしょう。

が、東京高等師範学校は様々なスポーツに力を入れている学校であり、一年目では快挙とも言えるものでした。

※1920年の第1回箱根駅伝では東京高等師範学校が優勝している(ただし参加校は他に明治・早稲田・慶応の計4校)

3位入賞を果たした金栗は、校長から表彰されます。

このときの校長こそ、柔道界の伝説であり、日本の近代スポーツ界を牽引した、嘉納治五郎でした。

嘉納治五郎
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予科生にもかかわらず3位入賞を果たした金栗を、嘉納は褒め称えました。

そしてこの出会いは、彼の運命を変えることになります。

しかし、このとき意気揚々として郷里に手紙を書くと、母はかえって心配するようになってしまいました。

母心さながらに、幼き頃、身体の弱かったことを案じていたのでしょう。

これ以来、金栗は好成績をあげても実家に知らせることはありませんでした。

 

徒歩部へ

明治44年(1911年)、金栗は予科を終えて本科へ進みます。

そして本科へと進んだ生徒は原則、何らかの部活に所属せねばなりません。

迷った末、金栗は徒歩部(後に陸上部)をチョイス。

 

・徒歩部はまだ貧弱だから、自分が鍛えてやろう

・長距離走で好成績を収めたからには、持久力に自信がある

・徒歩部ならば道具がいらない

そうした理由からでした。

もしも徒歩部に入らなければ“マラソンの金栗”は生まれなかったことでしょう。

徒歩部に入った金栗は、人より二倍練習することを自らに課し、早朝から練習に励みました。

気がつけば誰も彼には敵わなくなっており、そこで鍛えたスタミナのおかげか、本科に進んで一年後、春の長距離走で見事優勝を果たします。

長距離ランナーとしての才能が、ついに開花したのでした。

 

ストックホルム五輪予選に挑む

その年(1911年)の10月。

金栗は気になる新聞記事を読みました。

「第5回オリンピックストックホルム大会出場を賭けた国内予選を、11月18・19日の両日、羽田競技場で開催」

目を付けたのは、25マイルマラソンでした。

25マイルはおよそ10里(40キロメートル)です。

6里までは走ったことはあっても、さらに4里走れるかどうか。金栗は迷いましたが、思い切って参加することを決めました。

しかし、そう決めたのは、十月も半ば。予選会まで20日間とわずかしかありません。

必死に練習に励む金栗。

このとき「汗抜き」とうトレーニング方法を伝授されます。

体内の水分をできるだけ排出することで体を軽くするという方法でした。

金栗はこれを実践してみました。

が、どうにも喉が渇き、腹が減り、耐えられません。あまりの苦しさに砂糖水を何杯も飲むと、体がスッキリと軽くなりました。

以来、金栗は「汗抜き」はやめ、レース前に砂糖水も食事もたっぷりと摂取するようになります。

現在の箱根駅伝でもマラソンでも、途中で「水分補給」をすることは、健康面から考えても今や常識ですよね。

しかし、100年前の日本スポーツ界にそんな科学的見地があるワケもなく、金栗は奇遇にも自らの体験で最適の方法を選んでいたのでした。

偶然とはいえ、様々な試行錯誤の中から見つけた方法だからこそ実践に強い。

そんなことが窺えるエピソードですね。

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