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【日比谷焼打事件】
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数万人が日比谷公園へ集結 首相官邸等を襲撃
日本政府の意向はこんな感じです。
「こっちが有利な間に講和できたし、金のために戦争したわけじゃなんだからいいじゃん」
しかし、実際に家族から兵士を送り出した国民側は納得できません。
「せめて金ぶんどらないと、死んだ皆が浮かばれねえだろ!!」と激怒する人が大多数。
海の向こうで条約が結ばれている頃、東京・日比谷公園では講和反対の大集会が行われたのです。
当初は「講和条約に反対意見をまとめて政府に提出しよう」という穏やかな会だったのが、警官隊が入ってきてから一気に急変。
警官隊が「君達落ち着きなさい、もう決まったことなんだから大人しく引き下がるように!」となだめると、余計に民衆の心に火がついてしまうのです。
結果、数万人が、首相官邸や、政府に好意的な記事を書いていた国民新聞社を襲撃し、警察署や交番、電車に火を放つなどの大騒ぎになりました。
しかも仲介したアメリカにまで矛先が向き、米国公使館や同国の牧師がいる教会まで襲われ大混乱。
ヘタしたらアメリカと戦争になるんじゃないの?というような混乱ぶりでした。
無政府状態に陥った東京には戒厳令(一時的に軍隊が統治すること)が出されます。
2,000人以上もの人が検挙され、ようやくこの暴動も鎮火。
死者17名、負傷者500名以上という大きな騒動になったのです。
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そして大正デモクラシーへ
ちなみに、こうした集会から暴動に陥ったのは東京だけではありません。
神戸や横浜でも似たような事件が起きています。
戦争のしわ寄せで生活が困窮していたとはいえ、100年ちょっと前のこととは思えませんね。
暴動は同年秋には収まりましたが、講和反対の世論はなかなかなくなりませんでした。
そのため当時の桂内閣は総辞職し、新たな西園寺内閣が作られます。
しかし「市民が集まれば政府を動かすことができる」という経験は、民衆にも政治家にも大きな余波を残しました。
この動きが後々大正デモクラシーなどの民主主義運動に繋がっていくのでした。
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長月 七紀・記
【参考】
世界大百科事典
国史大辞典
日比谷焼打事件/wikipedia